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國分功一郎、熊谷晋一郎『〈責任〉の生成:中動態と当事者研究』

※2021年4月4日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 國分功一郎は『中動態の世界』で、中動態が消え、能動態と受動態の対立が基本となる過程は、「意志」概念の誕生と関連しているのではないかという論を提示した。物事の複雑な因果関係を、ある者の「意志」に責任を帰着させることによって、本来は複雑に入り組むはずの因果関係を一時点において切断できる。能動態と受動態の対立を基本とする現在の言語を「尋問する言語」と称するのはこういう所以だ。

 同書の冒頭は依存症患者との架空の対話で始まった。依存症ではない人とは「しゃべってる言葉が違うのよね」(『中動態の世界』5ページ)。熊谷晋一郎が進めてきた当事者研究はまさに、これまでの言語、認識の枠組みでは語ることのできない障害当事者の感覚や生活を語るための言葉を生み出していく試みなのだ。

 その2人による公開講座のもようを収録したのが本書『〈責任〉の生成』なので、当然、終始うなりながら読み進めた。特に印象的な部分を一つだけ書いておこうと思う。

 國分は「責任(responsibility)」が「応答する(response)」に由来することを重視し、「われわれは何かについて責任を負うことはできないのであって、何かを前にして、われわれは責任を感じる存在になるのである」(119ページ)というドゥルーズの論を引く。つまり自分が応答すべきものに出会ったとき、そこで責任感を感じ応答するのが本来の「責任」ではないかというのだ。

 一方、熊谷は当事者研究の世界にある「現象」という表現を紹介する。「放火」というと誰が火を付けたかが問われてしまうので、まず「放火現象」と呼ぶというように、まず出来事を属人化させるのではなく外在化させ、現象のメカニズムの解明のために仲間と共有、議論し合うというプロセスを踏むらしい。最近注目されている「オープン・ダイアローグ」もこういう方法をとることがある。

 すると、それまで罪の意識を持たなければならないと思いながらどうも持てなかった人が、はじめて罪の意識を感じられるようになった。そういう例が実際に起きている。反省を求められ続けながらできなかった人が、「免責」の上で「引責」に至るという流れはまさに、responseとresponsibilityのつながりを想起させる。

 この議論を見れば、中動態の世界では責任は取らなくていいという誤解が、まったく的外れであることがわかる。遂行としての「能動」と経験としての「受動」の対立とは違い、「能動態」と「中動態」は動作が完遂する場所が主語の外か内かによって分かれた。誰かから取らされるのではなく自ら取るものとしての「責任」はまさに「中動態」的なのだ。

 『中動態の世界』で十分論じられなかった「責任」をめぐる問題が、当事者研究とのコラボレーションによって解き明かされていく。と同時に、当事者研究が言葉を得ようとする試みに、中動態という古い言語の枠組みが強力な援軍となっていることも分かる。本書が対談の収録という形式をとっていることも、この「共同研究」のスリリングさを引き出すのに大きく貢献している。

(新曜社、2020年)=2021年3月6日読了


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