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言の葉

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これまでに投稿した作品のなかから、一部を抜粋してまとめています。ときどき更新するので、よかったらのぞいてみてください。
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#掌編小説

子どもを産んではいけない


一 出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。

 風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。

 あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していまし

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美しい景色の残酷さ

 この前、机に突っ伏してぼんやりしていたら、窓から夕暮れに呼ばれました。外に出てみたら公園の大きな木の、黄緑の呼吸が金色に燃えていました。

 ゴミ捨て場のそばに立ってじっと見上げました。その日は最近にしては少し涼しくて、日を頭からかぶっていても汗はそんなに出てきませんでした。鳥の鳴き声なんかも聞こえたりして、子どもたちの遊ぶ声も、木を後ろから抱き締めている深い空によく溶け込んでいました。

 こ

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平気で嘘をつく

 今日も平気で嘘をついた。顔を覗き込まれても大丈夫だよって笑ってみせた。「平気?」って聞かれたら平気だよってやまびこになった。

 にこにこ嘘をついていた。いいなって、何も感じていないのに言った。ほしいって、思ってもいないのに言った。なにあの人って、無感情で同調もした。

 嘘はいけないことだってひどく怒られているところを、帰りのショッピングモールで見かけた。小さな子どもで、親らしい人に叱られてい

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ワンマン列車の下

 ふっくら高い線路、そこをゆっくりと歩いていくワンマン列車を、たくさんの足音が這うように追っていた。地面を見たらぬかるんでいて、足の群れ、その言葉の残響が、水っぽく残っていた。

「追わないの?」

 振り返ったら、その長い前髪がゆったりと息をしていた。首を傾けたら、その人の後ろから、にゅっと影が現れた。そうして僕の横を通っていった。目が合うことはなかった。ただ、肩がどすんとぶつかった。

「怒ら

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 正しさという傘の種類が、もしビニール傘だけだったら。そう唇だけで笑わずにはいられません。握っている白い柄だけが共通で、そこから先は様々なんですから。色も形も、素材も模様も大きさも。機構だって。あと一緒なのはそう、どの傘も空想だってことでしょうか。

                               (了)

自己規定という名の呪い

 自分を規定せずにはいられないんですねと、その人は悲しそうに微笑していました。

 他者による規定には怒り、悲しみ、傷つき、抵抗するのに、自らによる規定には一切逆らわない。それどころか、積極的に自分で自分を決めようとする。線を引き、色をつけようとする。自分というものに言葉や概念を、価値観を感覚をあてがって、新たな、自分だけの区分を創り出しては設定し、そこにその身を配置する。つまりはそういうことなん

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私はコピー

 私はコピーです。存在をやめた、観念の写し絵なんです。私は、あらゆる単語や表現が、価値観が空気感が滴らせている色そのものです。私は、私という何かをやめ、あふれている言葉を、考えを、概念を、価値観を、ただ肉体に吸わせただけのものです。だから私はコピーです。自ら生み出すこと、自分で選択すること、そういったものに含まれている難問の一切は全部投棄して、自分で考えた、自ら選び取ったという言い訳だけを残し、存

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ぼーっとする時間は大切だ

 ぼーっとする時間は本当に大切だと、あなたは私におっしゃいました。創作や新しい発想に繋がるからとか、効率が上がるからとか、集中力がどうだとか、脳やリフレッシュがどうこうとか、こういうのにいいとか、無駄に見えても重要な意味や役割があるんだとか、いろいろな理由を添えて。

 だとしたら、そのぼーっとする時間は、創作や新しい発想とやらに隷属させられているのではありませんか。効率や健康、役割の奴隷ではない

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狂い雨

 雨音は、ひどく汚れています。美しさや悲しさ、虚しさや痛み、嫌悪感なんてものが、酔いが、事実として溶かされているんですから。

 どうして雨音を、雨音として聞くことができないんでしょう。なにゆえ雨音に、意味なんてものがあるんでしょう。雨音に触れることができない耳を、指先を、絶えず呪っています。穢しているのは自分自身なんですから。

 一歩たりとも近寄ることの敵わないこの体。すっかり歪んでしまった目

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眠り

 お水をね、ひたひたになるまでついで、そうして飲めばいい。ちょっとだけ臭い、もしかしたら臭くないかもしれないけど、とにかく水道のお水を。一杯二杯と喉を鳴らしたら、そのうちトイレにいきたくなる。そしたらお手洗いにいけばいい。そこで自分を、存在を聞けばいい。生きてる音を。戻るときはまたお水を一杯でも半分でも飲んで、それからお布団に倒れ込めばいい。まぶたを閉じることだけが、意識の断絶だけが眠りじゃない。

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小さな石よ

 ざらざらした、尖ったところのある小さな石よ。聞いてください。本当に私には、生活する、生きていく力がないんです。どうしてでしょう。人は努力を説きます。命じます。ですが、努力できることさえ偶然じゃないかという事実については触れません。殴られずに生きていられることも、殴らずに生きていけることも、たまたまではありませんか。あなたなら分かってくださるでしょう。あなたがざらざらしていることは偶然で、恐らくカ

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小声

「賞、お金、評価、名誉、称賛、価値、貢献、他者の救済、読んでくれるたった一人。これらすべてに最後まで無縁だとして、それでも書けるかどうか。インターネットもない。身近に誰もいない。あるのはただキーボードか、紙とペン、いや、もはやそれすらないとして、それでも書けるなら。そういう人が残したものを読みたいと思う。それはきっと、本当だと思うから。その人だけの言葉であろうから。その書かれたものは描かれたもので

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死の指

「あなたはわたくしを尊敬していると、信頼していると、好きだと、そうおっしゃいました。ですがわたくしは、あなたに尊敬などされたくありません。誰かを尊敬することを、尊敬できる人に恵まれることを、あなたはよいことだと、幸いだとお考えなのかもしれませんが、尊敬のまなこで人を見ることもまた偏見だということ、あなたはお考えになったことがありますか。あなたはわたくしに、何か光を見ていらっしゃる。ですがその光が、

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本当の自分

 本当の自分っていう表現を、ずっとしてきた。

 こんなのは本当の自分じゃないって。本当の自分でいられるのは、こういうときだって。

 でも、あるときふっと思った。本当の自分、それはいったい何なんだろうって。本当とか偽物とか、そんなふうに、すっぱり切り分けられるんだろうかって。

 仮に本当の自分なんてものがあったとして、じゃあ、偽りの、嘘の自分として削がれた肉は。

 ずっとごまかしてきた。違和

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