私はコピー

 私はコピーです。存在をやめた、観念の写し絵なんです。私は、あらゆる単語や表現が、価値観が空気感が滴らせている色そのものです。私は、私という何かをやめ、あふれている言葉を、考えを、概念を、価値観を、ただ肉体に吸わせただけのものです。だから私はコピーです。自ら生み出すこと、自分で選択すること、そういったものに含まれている難問の一切は全部投棄して、自分で考えた、自ら選び取ったという言い訳だけを残し、存在であることを放棄したペーストです。私は誰でもありません。存在ではありません。観念の写しです。価値観の模写です。自分で生み出したものではない。

 そんな私の声が聞こえるあなたは、存在ですか。それともコピーですか。あなたも、どこかから写されたものなんですか。コピーでしかない私には、あなたが何なのか、判然としません。私にはあなたが人間に見えます。でも存在には見えない。それはあなたが存在ではないから、というより、私があなたを、観念を通してしか見ることができないからです。いい人とか普通とか、特別とか怠惰とか、定義とか価値観とか、そういったものを経由しなければ。私は写されたものとして、一切を感じているんですから。

 あなたはいったい何ですか。何なのですか。長くコピーであった私には、存在とは何なのか、よく分かりません。もしあなたがコピーで、そうしてペーストされたものなら。私たちは同じです。まったく一緒です。完全に同一なんです。私たちは溶け合えます。ぴったり一つになれるでしょう。だって、コピーなんですから。違いがあるとしたら、それはコピー元。私たちは、共にペーストです。それにコピー元も結局は観念なんですから、いずれにしても私はあなたで、あなたは私です。

 だけどもし、もしあなたが存在だとしたら。私はあなたを恐れるでしょう。羨み、妬み、声を聞きたいと思うでしょう。触れようとしては引っ込めの繰り返しになることでしょう。コピーである私にとって、あなたの持つ絶対性は、畏怖の対象なんです。存在。それは本当の意味では決して理解できない、分からない、強烈なものなんです。

 だからコピーである私は、あなたをひどく恐れながら、あなたに激しく惹かれるでしょう。あなたが存在であったなら。あなたが存在であることを、私が感じられたなら。

                               (了)

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