ぼーっとする時間は大切だ

 ぼーっとする時間は本当に大切だと、あなたは私におっしゃいました。創作や新しい発想に繋がるからとか、効率が上がるからとか、集中力がどうだとか、脳やリフレッシュがどうこうとか、こういうのにいいとか、無駄に見えても重要な意味や役割があるんだとか、いろいろな理由を添えて。

 だとしたら、そのぼーっとする時間は、創作や新しい発想とやらに隷属させられているのではありませんか。効率や健康、役割の奴隷ではないんですか。なんであれ、そのぼーっとしている瞬間を、生贄として捧げているだけじゃ。

 私がぼーっとすることやそのやり方を、正しさや意味、価値や効率、向上や科学、よさなんてもので汚染するのはやめてください。創作やら効率やらその他もろもろの餌として、私はぼんやりを使いたくありません。ぼーっとすることは大切だ、なんて聞こえのいいことを言いながら、実際は大切になんてしていないじゃありませんか。ただ道具にしているだけじゃありませんか。役割として、パーツとして、ぼんやりを働かせているだけでしょう。

 創作のために、クリエイティブのために、効率なんてもののためにぼんやりするなんてまっぴらごめんです。何かのためにぼーっとする。そんなの、その時間を、瞬間を、感覚を踏みにじっているに等しい。私はそう感じます。

 あなたが創作や効率のために、何かの向上のためにぼーっとするのは勝手です。でもそれを、私はぼーっとしているとは思いません。それは結局、創作しているのであって、仕事や勉強をしているのであって、効率を追い求めているのであって、向上を試みているのであって、何か生き方の正解みたいなものがあってその道を省みることなく突き進んでいる、そういうことなんですから。その何もしない時間とやらは、役割であることを強いられているんですから。なされるぼんやりは、そうした一切の一部に過ぎない。ぼんやりは、ぼんやりとして存在することを許されていません。

 ぼーっとする時間すら穢そうとする。そんなの、意味や価値、科学や進歩、向上とかいいとか、それから自己肯定への欲求によってもたらされた、どうしようもない悪癖にしか見えません。

 私は、ただただぼーっとしたい。本当に、ぼんやりしていたいんです。大切なんて言葉も考えも、その瞬間にとっては邪魔なだけです。

                               (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?