狂い雨
雨音は、ひどく汚れています。美しさや悲しさ、虚しさや痛み、嫌悪感なんてものが、酔いが、事実として溶かされているんですから。
どうして雨音を、雨音として聞くことができないんでしょう。なにゆえ雨音に、意味なんてものがあるんでしょう。雨音に触れることができない耳を、指先を、絶えず呪っています。穢しているのは自分自身なんですから。
一歩たりとも近寄ることの敵わないこの体。すっかり歪んでしまった目玉。雨滴に何かを求めたところで、しずくは絶対的なものです。この血肉の、向こう側にあるんです。雨。あめ。いくら呼んでも、その名をどれほどつぶやこうとも、雨がこちらを見ることはありません。こちらが雨を見ていないからです。
テレビの真っ黒に、自分の猫背が映っています。雨にすがろうとしている自分が。笑えるではありませんか。自分の壊れていく音は、瞬間瞬間はっきりと聞こえるのに、雨音は、雨それ自体は、これっぽっちも聞こえないんですから。
まだしばらく、やみそうにありません。自分という存在の崩壊も、おさまりそうにありません。不思議でなりません。なぜ形を保っていられるのか。どうして自分などというものがここにあるのか。
どうも狂ってしまったようです。ですが狂った者の言葉など、いったい誰に届くでしょう。明日の狂った自分以外に。いいえ。明日の自分が自身である保証などないんですから、この言葉は、書いた瞬間の自分以外に、届くはずもありません。
やっぱり、変になってしまったようです。だからでしょう。雨がこんなにも狂っているのは。
(了)
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