人間存在の複雑性──バタイユの視点から
0.要旨
『人間存在の複雑性』をテーマに、本エッセイは人間の存在の意味、対立と調和、内面的葛藤、ジェンダーのアイデンティティ、芸術を通じた感情表現の探求を展開する。サルトルやバタイユの哲学を踏まえ、人間実存の曖昧さと矛盾を統合へと導く道を探り、自己と他者、個人と社会の関係性を深掘りし、新たな自己を生み出す可能性を示唆する。文学作品を引用しながら、ジェンダーの多様性と芸術の力を探究し、人間の精神の頂点への道を照らす。
1.序論
1.1.執筆動機
昨今の時事問題、戦争や紛争、災害への対応や差別問題などから、人間中心主義への疑問が湧く。存在の複雑性に立ち返りたくなった。バタイユの哲学やジェンダーに関する議論を通じ、対立や調和に対する僕の洞察過程を残しておくことにした。
バタイユの哲学は、対立を超えて調和を追求する努力を重視し、これが人間の精神の高みへの道を示唆している。そのため、本記事は反戦や博愛の理念とも関連があるが、直接的な言及はさほどない。
1.2.概論
人間存在をめぐる対立と調和の問題は、量子論や化学反応、生物の性差など、自然界のさまざまな事象に通底する普遍的な原理である。本エッセイでは、バタイユの思想を手がかりに、この根源的な原理について考察を深めていきたい。
今回、既存の学問領域を越境する試みを行ったが、学際性の深化にはなおいくつかの課題が残る。対立と調和の普遍原理は人類普遍の原理であるはずだが、現代思想への傾斜が見受けられる。今後は人類学や文化人類学の知見も参照し、多様な文化における「対立」と「調和」の概念的理解を参照する必要がある。また、宗教学や神話学の領域にも着目し、神話的世界観における対立と調和のダイナミズムの解明も検討課題となろう。加えて、脳科学や認知科学の成果を援用することで、「至高の感性」の神経基盤にまで掘り下げた学際的検討も可能になるだろう。
1.3.仮説 対立の止揚と精神の頂点
まずは、仮説を打ち立ててみる。対立する要素の間には、調和への連続性が潜在しているのではないか。この根源的な原理を、バタイユが説く「至高の感性」によって認識し、対立を止揚した統合へと高めることが可能になるのではないだろうか。そしてこの対立の統合こそが、人間の精神の頂点へと至る重要な過程なのではないか。
具体例をいくつか挙げてみよう。量子力学において、粒子と波動は対立する存在形態であるが、実は両者が渾然一体となることで量子現象が現れる。つまり、この二つの対立項の間に連続性が潜んでいるのだ。
同様に、化学反応においても酸化と還元は対をなしており、この二つが表裏一体の関係にあることで化学変化が生じる。一見矛盾する2つの過程が、実は連続した一つの原理を体現している。
生物の性差における雄雌の関係も、この原理の現れと言えるだろう。雄と雌は性的に二元化されているが、お互いに補完し合うことで種の保存に貢献する。対立しつつも連続した関係にあるのである。
バタイユはさらに、有性生殖の過程にもこの連続性の原理が現れていると説く。つまり、精子と卵子が一時的に連続した存在を形作りながらも、すぐさまそれは非連続な2つの個体へと分化していくのだ。生命の連鎖そのものが、対立と統合の弁証法を描いている。
芸術作品にも、この根源的な原理は投影されている。絵画や音楽では、相反する要素が対になりながら渾然一体となることで、新たな次元の陶酔が生まれる。荒涼と温かみ、緊張と解放といった二律背反が、見る者・聴く者に強烈な感動を呼び起こすのである。
人間存在そのものにも、この原理は色濃く現れている。サルトルが指摘したように、人間には自他の二元性が宿り、自らの自由な存在は常に他者の思考や視線によって規定されざるを得ない。しかしその一方で、他者の存在なくしては自己を全うできない。このパラドキシカルな関係性こそ、人間における対立と連続の現れではないだろうか。
以上のように、自然現象から芸術、人間存在に至るまで、対立項の間に調和への連続性が潜んでいることが確認できる。しかしこの連続性を認識し、対立を統合へと高めるには、バタイユが唱える「至高の感性」が求められる。理性を超越したこの感性によってのみ、対立項の奥に潜む調和が体感できるのだ。
バタイユは芸術作品の鑑賞における陶酔の体験に、この至高の感性を見出している。さらに「私は太陽である」と叫ぶがごとく、あらゆる対立や嫌悪を自己の内に取り込み、渾然一体の新たな存在を生み出す強度の感性をも説く。
つまり、対立を決して二者択一と見なすのではなく、至高の感性によってその根底に潜む連続性を認識し、統合へと高める。このプロセスこそが、人間の精神を極限の頂点へと導く重要な過程なのではないだろうか。バタイユの思想は、このように人間の精神の至上の境地を指し示しているのである。
本論では、これら仮説をさまざまな角度で検証していく。
2.対立と調和の普遍原理
素粒子の二重性は量子力学の基礎概念だが、粒子と波動はまさに相反する存在形態の二つ一対である。もっとも有名なのはEPR-パラドックスに関するアインシュタインの論文が挙げられる。(註釈1)
酸化と還元も化学反応として常に一対で起こる。生物の雄雌は性的二元性を体現しつつ、種の保存にあたり、お互いに補完し合う関係にある。科学的にも、対立が調和の上に成り立つ事例は数多い──表裏一体な二項対立的現象は興味深く、好きだ。自然の摂理や神秘、生と死、愛憎など。
そして、人間中心的でない博愛が好きだ。だから、僕はバタイユに惹かれてしまうのだ。
このエッセイにおける実証的アプローチは一定の成果を示したものの、対立と調和の普遍原理の完全な解明には課題が残る。今後は、対立項の微細な振る舞いの観測、新次元のデータ解析手法の開発など、より精緻な実証研究の深化が不可欠となろう。あわせて、多様な対立事例の体系的データベース化と包括的モデル化を行い、普遍原理の数理的記述を試みる必要がある。さらに実験科学の手法に留まらず、社会調査や民族誌的手法による対立と調和の実践事例の収集と分析へとアプローチを拡張することで、理論と実証の統合的検討を目指せたら理想かもしれない。
そうした展望は、一旦脇におき、本題に入ろう。
3.バタイユの思想
知性を持つ人間たちは、見たいものしか見ない。
見たくないおぞましい動物性を見ないのだ。
バタイユは、それらを主体性もって独自に見つめ述べている思想家、あるいは聖者、あるいは狂人だろう。連続性と非連続性の弁証法的一体性を説いた。エロティシズムにおいて、禁忌的なものと陶酔が一つに融合する様は、その典型例だろう。生と死の間にも連続性が存在し、死はただの生の終焉ではなく、新たな生への移行でもある。
3.1.エロティシズムと禁忌/連続性と非続続性
このように通常分断されがちな事象の間にも、連続する一体性が潜在している。移行を可能とする至高の感性について、つまり、至高の感性の重要性──他人には理解し難いような所謂《メタファー》をバタイユは意味あるものにまで押し上げている。
感情を理性で乗り越え、更に、その理性を乗り越える感性。
「私は太陽である」と叫ぶだけで新しい朝が燦然と現れ、悲しみ憎しみ嫌悪をものともせずに乗り越えられるのだ。叫びながら、その叫びを愛/神秘/夜によって切り裂かれたい、切り裂かれてこそ、聖域/沈黙へアクセスできるかもしれない、という激しい葛藤は、タナトス的剥き出しの生への渇望に思う。死を目前としたものにしか《意味》など価値は懐疑的なのだろう。
他者(人間だけではなく、あらゆる動植物やそれらを取り巻く環境)の存在を尊重するという謙虚さを忘却の彼方に押し込み、欲望を動物的に剥き出している様の顕著な例が紛争や戦争だ。
これは、原爆投下直後の広島を取材したジョン・ハーシーによるルポタージュ『ヒロシマ』への書評の一文である。説得力と凄みのある危機感を持つバタイユの素晴らしい小論だ。
この一文は、科学技術発展とともに誕生した核兵器が無益なものであること、かつ、原爆投下を目の前の現実とする人々の人間の理性を超えた感性の崇高さ、つまり、至高の感性を的確に述べてもいる。
今回、提示した「至高の感性」の再概念化は、バタイユ思想の新解釈の一端を示すにすぎない。さらに突き詰めるならば、バタイユの根本概念である「連続性」と「非連続性」の弁証法的把握そのものに、決定的な問い直しが必要となるだろう。バタイユはこの二つの概念を二元対立的にとらえがちであったが、そこには未だ解体されるべき形而上学的残淀が潜んでいる可能性がある。本エッセイではサルトルの「対自の直接的構造」や「共同存在」など、また、バトラーのジェンダーにおける研究を参照し、「連続性/非連続性」という古典的二項を離れ、実存の複雑な継起における主体の生成過程に着目する。このことにより、対立の止揚を志向するだけでなく、「差異の政治」の視点からバタイユ理論の潜在的可能性を掘り起こすことが可能になると考えられる。
4.連続性と非連続性〜対立と調和
4.1.蝶への嫌悪と対立の象徴
僕は蝶々が嫌いだ。
幼虫の頃は異様に柔らかくクネクネと動き、メタモルフォーゼした後には、ふわふわと飛び、鱗粉を振り撒き、得体の知れない丸まった細いストローのような口で蜜や水を吸い上げる。
とにかく嫌いなのだ。
蝶への嫌悪感は一見すると、主張からかけ離れた個人的な感情にすぎないように思えるかもしれない。しかし、それは蝶の存在そのものへの嫌悪ではない。むしろ、蝶の一生を眺めるとき、幼虫からさなぎ、そして美しい蝶へと移り変わるその過程に、生と死の連続性、醜さと美しさの同居、対立する二つの性質の表裏一体の関係性を感じ取ることができる。この蝶の一生に象徴される生成変化の過程そのものに、ニーチェ的な意味での狂騒的でディオニュソス的(ニーチェが『悲劇の誕生』で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつもの)な生の根源的(註釈2.)な力が宿っているのである。対立項が渾然一体となってなお動的に変転していく様は、まさにディオニュソス的な世界観を体現している。このような蝶の一生に象徴されるディオニュソス的な対立の統合こそ、バタイユが説く連続性と非連続性の弁証法を体現しているのである。また、これは、サルトルが述べる以下とも関連付けられる。
僕が蝶に嫌悪を抱くのは、この対立の一体性にあまりにもストレートに直面させられるが故の、ある種の畏怖感からかもしれない。しかし同時に、その存在様式の神秘さに魅了されざるを得ないという矛盾に胸を打たれる。このように、蝶は対立項の調和した具現例として、きわめて重要な意味を持っている
ところで、自然界の現象と社会的概念を結びつけると、対立と調和のテーマがくっきりと浮かび上がる。蝶の変態過程は、生物学的な発達段階を経て個体が成熟し、美しさを獲得する過程であり、これをジェンダーのアイデンティティが個人の経験や社会的相互作用によって発展し、変化することのメタファーとして捉えることができる。ジェンダーアイデンティティの形成は個人個人で異なるプロセスを辿る。例えば、ある人は幼少期から強いジェンダー意識を持つ一方、ある人は思春期を過ぎてから自身の性を見つめ直すケースもあるだろう。こういった個別のプロセスを尊重し、画一化された枠組みにとらわれずに支援していくことが大切である。
この比喩を通じて、ジェンダーのアイデンティティが固定されたものではなく、時間と共に進化する可能性を持つことを示唆する。また、蝶の生涯は対立する特性の統合を示し、ジェンダーにおいても異なる特性を統合し個人のアイデンティティを形成することが可能であることを示唆する。
僕は性差を際立たせ権利を主張する語彙が苦手だ。例えば、フェミニズムやジェンダーなど。
5.性差とジェンダー概念への違和感
フェミニズムは、性別に基づく不平等に対抗し、平等な権利を主張する社会運動であり、ヒューマニズムは、人間の尊厳と個々人の価値を重視する思想である。これら二つの概念は、社会的な対立を超えて、より公正で包括的な社会を目指す点で共通している。フェミニズムの目的が単に特定の権利を主張することではなく、すべての人間が平等に尊重されるべきであるというヒューマニズム的観点からの理解を深める可能性──その運動の範囲と影響については様々な意見がある。「女であるならこの権利がある」と叫ぶのが僕は何だか違和感を感じる。弱い者を強い者がサポートする、ただそれでいいし、生理学的な体調の変化や不都合なども、「生理学的現象」として、認識し合い、助け合えばいいだけだし、そうできるのが現代文明の叡智であるはずだし、それはフェミニズムではなくヒューマニズム的観点から声を上げるべきだろう。
5.1.ジェンダー平等とヒューマニズムの視点
ジェンダーやLGBTQといった用語が一般的にもさまざまな媒体で使われるようになってきている。ジェンダー概念について上野千鶴子によれば、学術的に70年代以降、定着したようだ。
ジェンダーという語彙の不確かさに疑問が残る。ジェンダーに対する批判的視点を提示する一方で、個人の生物学的差異や多様性を尊重することが重要だ。一人一人の固有の違いを尊重し、画一化された枠組みから解放されることが不可欠である。サルトルが説いたように、人間には自由な主体的実存を遂行する権利と責任がある。ジェンダーに関する議論は、性差の存在を曖昧にせず、むしろ個々の個体差や固有性を認識する上で補完的な役割を果たすべきだろう。
主義主張のために曖昧な語彙を用いることの隠蔽体質と他責。生理学的性差を曖昧にする語彙は均一化を肯定しているようにも感じる。個体差を許さないことに繋がりそうで嫌だ。
ジェンダーという概念への違和感は、生物学的な雌雄二元性という対立を、あいまいな言葉で覆い隠そうとする試みに対するものである。上野千鶴子は、この点について「セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的文化的カテゴリー)を区別する必要性」があると指摘している(上野 2006)性差をジェンダーという概念で曖昧にしてしまうと、むしろ男女の個体差や固有性を均一化し、排除してしまう危険性がある。生物学的な性差という事実を前提にしつつ、その上で構築される社会的ジェンダーカテゴリーの相対性を認識することが重要なのだ。
やや抽象的な前述を噛み砕いてみる──ジェンダーは社会的に構築されるという理論は、生物学的な性差をあいまいにし、個体の多様性を無視する危険がある。例えば生理現象における男女の違いは、明らかに生物学的な性差に起因するものである。しかしジェンダー理論はそうした生物学的事実を曖昧にしてしまう。代わりに社会的要因のみを強調するあまり、個体ごとの固有の違いを等閑視してしまうのではないか──ということだ。
本来、男女の性差は、種の保存を支える上で表裏一体となって対をなす必要不可欠な存在である。つまり相補的な関係にあるのだ。この対立項めぐる不可分な一体性が、人類を支えてきた自然の原理なのである。これはジュディス・バトラーの「ジェンダーの二元論的枠組み」への違和感と重なる。ジェンダーという概念はかえってその原理から逸脱し、本来の自然の神秘を見失わせてしまう。ジェンダーを男女の二元論に押し込めるのではなく、よりスペクトルとしてとらえ直す発想が必要かもしれない。例えば、XYZといった新たなジェンダーカテゴリーを設け、性自認と性的指向を多角的に開示できる枠組みを用意する。そうすれば、従来の二元論の制約からも解放される。
対立項の一体性とは、固有の差異を排除するのではなく、その違いを前提としながらも、全体としての調和ある統合を目指すものでなければならない。生物学的な性差は自然に存在するが、その上で男女に期待される役割は社会的な構造の中で人為的に形作られてきた側面がある。例えば家事や育児は、必ずしも特定の性に依存するものではない。こうした役割分担について、個人の適性や事情に合わせて柔軟に見直していくべきであろう。
5.2.ジェンダー言説の曖昧さ
対立項の一体性は、固有の差異を受け入れつつも、その相互関係の中で統合を追求することを意味する。つまり、対立が存在することで新たな意味や価値が生まれ、調和した統一が可能となる。
この点でジェンダー概念には違和感を覚えざるを得ず、個体差を許容する上で問題があると考えられる。
フェミニズムの思想や、ジェンダー概念へは一定の評価も必要であろう。それらは性差別への抗議と、多様性の承認を促す動きであり、対立の不当な分断に警鐘を鳴らしている。ただし、ジェンダーという言葉があまりにも曖昧であり、却って個体差を無視する危険性を孕んでいる点には注意を払わねばならない。生物学的性差という事実を前提に、しかしその上で男女の個性と多様性を尊重する道を探ることが、調和ある統合への一歩となろう。
生理現象における男女の違いは生物学的性差に基づくものである。しかし、その上で個人によって生理的リズムや症状の現れ方は様々である。従って、一人一人の個体差を尊重し、柔軟な配慮が必要となる。例えば生理用品の選択や休暇の取り扱い、妊娠、出産前後に伴う心と体の体調の変化などは、個人の事情に応じて対応できる仕組みが求められよう。
バトラーの主張する「ジェンダー化された規範からの解放」や「多様性の許容」という視点と合致するかもしれない。
蝶や性差への僕の嫌悪や違和感は、対立項の不当な分断や隠蔽に対する危惧から生まれており、対立の統合的解消が実現されていない現状への批判的な眼差しにほかならない。つまり主張する対立概念の調和一体の理念の欠如に対する、批判的な姿勢の表れなのである。
イデオロギーやドグマ的何かを声高にしているとき、その行為が主体性なきものに見えることがある。権力やイデオロギーへの強い批判は、対立の不当な一方的解消への危惧に由来している。権力者が他者性を無視し、支配と収奪を繰り返すならば、調和ある統合はかならず阻害される。サルトルが指摘したように、他者の視線によって自己が対象化され、自由が制約されてしまう。だからこそ、調和のとれた他者との関係性を構築する必要がある。他者の存在を無視し、自己のみを絶対化することは危険である。サルトルが指摘したように、他者の視線によって自己が対象化され、自由が制約されてしまう。だからこそ、調和のとれた他者との関係性を構築する必要がある。イデオロギーがあくまでも一元的な価値観を絶対視するなら、対立の根源的な意味を見失ってしまうであろう。したがって、様々な立場や個性の許容と包摂が不可欠となる。
蝶々は主体性があるか?──あるだろう。
彼らにとって、他者性はまったく必要なく、生きることにただひたすらに純粋だ。つまり、自然に調和する自由を謳歌している。
人間の場合はどうか?
《私》は第三者に依存しており、その自由な考えによって《私》の実在が規定されているのだ。《私》はそのための存在であり、第三者なくしては何者でもない。《私》には、この脅威に対抗する他の道はない。なぜなら《私》は、他者の自由な判断なくしては何者でもないからである──要するに、他者の視線や判断によって自己が実在として規定され、その自由な考えに依存せざるを得ないということだ。
他者性から逃れられないこの哀れな人間は、どこかに所属し、帰属していなければ、いつも不安を抱え、生きづらく、権威を嫌っていても、権威にぶら下がるか頼るかして、社会での立場を承認されたがる。かなしいことに、社会的承認は人間にとって非常に重要だ。
銀行口座を開く際には住民票や運転免許証などの身分証明書と印鑑が求められる。つまり、身分を誰かに証明してもらわないと、お金すら預けられないし働けない現実がある。
確かに、このような制度に基づく身分証明は現代社会に不可欠である。しかし一方で、上野が「性別自認やセクシュアリティにおける多様性が指摘され、ジェンダー二元制への批判がなされている」(上野 2006)と指摘するように、個人の生来的な多様性を尊重する視点から、そうした制度的な枠組みにとらわれすぎることへの危惧も持つ必要があるだろう。ジェンダーを言語カテゴリーとして捉えるこの構造主義的アプローチは、ジェンダーアイデンティティの可変性や曖昧さを浮き彫りにしている。個人の固有性を認めつつ、制度的な要請とのバランスをいかに保つかが課題となる。この僕は、誰かに証明されたくなんかない。僕は僕であり、世界に唯一無二の存在だ。ジェンダーの流動性は、対立と調和の間の形而上学的な橋渡しとなり、芸術の真髄を解き明かす可能性があるのかもしれない。
6.対立と調和の芸術表現
6.1.音楽 ベートーヴェンとマーラーから
ベートーヴェンの『運命』が鳴り響き、仰々しさと柔らかさのコントラストにいつの間にか取り憑かれたように聴き入る憐れな僕。歪みと美しさが共存している。第1楽章の緊張感ある旋律と、第4楽章の歓喜の歌による和解は、音楽がどのように人間の感情の対立と調和を描き出すかを示している。この二律背反する要素の同居こそが、作品の魅力の源泉でもある。荒涼とした感情と温かな旋律が行き交う。激しさと穏やかさの対比が、緊張感と陶酔をもたらしている。
また、マーラーは人間の内面や思想性の高い作曲家であり、前述のベートーヴェンから強い影響を受けている。特に、『交響曲第五番』はベートーヴェンの交響曲を意識しているとよく言われている。以下、簡潔に各楽章における特徴を述べる。
・第1楽章
葬送行進曲の形式を取り、トランペットのソロによる不吉なファンファーレで始まります。死というテーマを探求し、重厚で厳粛な雰囲気を持っている。
・第2楽章
嵐のような激しさを持ち、情熱的で荒々しい音楽が特徴。力強い第1主題と悲しげな第2主題が対比され、マーラーの内面的な葛藤を音楽的に表現している。
・第3楽章
スケルツォであり、ワルツやレントラー舞曲の要素を含みつつ、ホルンが大活躍する楽章。ユーモアと皮肉が交錯する複雑な性格を持っている。
・第4楽章
アダージェットは、マーラーの交響曲の中でも特に有名で、映画『ベニスに死す』で使用されたことで広く知られるようになった。非常に遅く、瞑想的な美しさを持ち、愛と悲しみを表現している。
・第5楽章
アレグロ・ジョコーソで、楽曲は明るく、活発な終結を迎える。前の楽章の瞑想的な雰囲気から一転して、希望と喜びを象徴するような音楽になっている。
マーラーの交響曲第五番は、悲劇と喜劇、暗さと明るさ、そして対立と調和のテーマを巧みに表現しており、聴く者に深い感動を与える作品である。
6.2.詩 『悪の華』ボードレールから
詩についてはどうか?ボードレールの『悪の華』を取り上げてみる。
序文のAu Lecteur(読者に)はまさに存在論的な詩である。
バタイユとサルトルは、ボードレールの詩において、各々異なる見解を持つ。バタイユは、悪という概念を再評価し、それが文学における価値とどのように関連しているかを分析している。一方でサルトルは、ボードレールの苦悩を欺瞞と見なし、彼が既成の善に挑戦せず、自己を悪として断罪し悩んでいると批判する。バタイユはボードレールの苦悩を、無限定の子供らしさに忠実であるための苦悩として捉え、自己への断罪を通じての深い愛として理解している。このように、バタイユは詩の裏切りを世界の戯れとしてのあり方と見なし、詩と世界の関係を常に変化するものとして捉えている。(註釈3.)
詩の本質──対立と調和の狭間。詩は滅びゆくものを永遠のものに変えることで調和を生み出すが、詩人が自己の挫折を詩に投影するとき、詩はその対立を反映するのだ。
このように芸術は、対立するものの融合によって、新たな次元の体験を生み出す。
対立と調和の狭間の奥深く、世界の深淵──だが、音楽や詩ですら表現し難いものは?笑いのもたらす世界の深淵を垣間見る契機か?誰の?これを書く僕の?読むかもしれない、あるいは、見向きもしない蝶の笑いか?
6.3.哲学、文学、社会、相互依存性の中の自己
6.3.1.バトラーの『非暴力の力』における洞察
結論に至る前に、ジュディス・バトラーの『The Force of Nonviolence: An Ethico-Political Bind』からの洞察を考慮に入れることが重要である。バトラーは、暴力と非暴力の区別を考察し、社会的相互依存性を攻撃する暴力に反対する立場を明確にしている。
バトラーは、非暴力の倫理と政治が個々の生命が相互依存していることをどのように考慮に入れるべきかを示唆している。
彼女は、自己が他者との社会関係によって定義されると主張し、非暴力はこれらの関係を肯定する方法として提示されている。
6.3.2,非暴力と平等の政治
さらに、個人主義や共同体主義を超えた、実際の社会的絆とその潜在的な世界的な結びつきについて問いかけている。
6.3.3.バトラー、バタイユ、サルトルにおける個人と他者の関係性
このバトラーの文章は非暴力、平等の政治、そして生命の尊厳について述べており、バタイユやサルトルの哲学との関連性を感じ取れるかもしれない。バトラーは、個人主義を超えた相互依存の倫理と政治を説く。これはバタイユの「連続性」の概念、すなわち個々の存在が孤立したものではなく連続して結びついているという考え方と通底する。一方でサルトルは、個人の自由と主体性を重視しつつ、他者との関係性の中で存在を理解しようとした。バトラーはこれらの思想を踏まえながら、非暴力による平等な関係性の構築を目指している。
バトラーが提起する非暴力と平等の政治は、バタイユの反ファシズムや民主主義に対する考え方とも関連がある。バタイユは、ファシズムの感情的な側面と、反民主的な情熱を動員する方法を理解するための概念を提示している。ここで注目すべきは、ファシズムや反民主主義が、しばしば特定の集団への「追放」や「離脱」を伴うという点である。作家ミラン・クンデラは、プラハの春前後の社会的不条理における追放や離脱といった観点で間接的ながら「暴力の論理」についても深く考察した。
6.3.4.ミラン・クンデラの『不滅』における連続性と非連続性
彼の作品は、個人の自由、政治的抑圧、そしてそれらが個人のアイデンティティや人間関係に与える影響を探求しており、特に彼自身の追放の経験は、彼の文学における重要なテーマの一つとなっている。クンデラの作品においては、暴力や追放はしばしば、個人の存在や人間性を否定する行為として描かれる。
例えば小説『不滅』では、登場人物たちが政治的状況や社会的圧力に直面し、追放や孤立を経験する。これらは、クンデラが故国チェコスロヴァキアから追放された自身の体験と重なる。
クンデラは、個人の内面世界と外部の政治的現実との関係を掘り下げ、その中で「暴力の論理」が個人の生をどう侵食するかを描写する。彼の作品は、暴力や追放が個人に与える深刻な影響を洞察し、人間がそれにどう反応し適応するかを多角的に探ることで、読者に強い印象を残すのである。そして、連続と非連続を想起させる。
6.3.5.個人の自由と社会的束縛
このように、バトラー、バタイユ、サルトルらは非暴力や他者との関係性を重視する一方、クンデラは暴力の論理と個人の自由やアイデンティティとの関わりを描いた。しかし両者には、個人が完全に独立した存在ではなく、社会的な絆や政治的状況から切り離せない、という共通する問題意識が見られる。
バトラーの議論は、バタイユの「連続性」の概念や、サルトルが『存在と無』で示した他者との関係性の重要性とも重なる。バタイユは個々の存在が孤立したものではなく、連続性を通じて相互に結びついていると考えた。一方サルトルは、個人の自由と主体性を強調しつつも、他者との関係を通じて存在を理解しようとした。
このようにバトラー、バタイユ、サルトルはいずれも、個人が完全に独立した存在ではなく、他者や社会的な絆と切り離せない関係にあることを指摘している。そしてこの点については、加藤周一の『文学とは何か』についての考察も参考になる。加藤は、リルケからサルトルに至るヨーロッパの作家たちが表現する実存的な孤独が、単なる歴史的産物ではなく、人間の普遍的な現実としての意味を持つと主張した。
加藤によれば、この普遍的な孤独や人間性を理解し内省することで、僕らは歴史的・社会的制約を超えることができる。しかし、現代日本社会を見渡せば、二〇十二年の自民党による憲法改正草案や、現政権による度重なる閣議決定の強行といった権力者による一方的な決定や二〇二四年一月一日能登半島地震への対応の遅れなど、に批判の目が向けられる。さらにロシア・ウクライナ/イスラエル・パレスチナ問題や戦争紛争、少数民族弾圧への先進国のダブルスタンダードなど、国民一人一人が社会的・政治的な束縛から完全に自由であるわけではない。
このように、バトラー、バタイユ、サルトル、加藤の議論する個人と普遍、自由と絆の問題は、現代社会の中でも常に関連性を持ち続けている。
6.3.6.サルトルの『文学とは何か』における暴力と文学の役割
サルトルは著書『文学とは何か』の中で、「暴力は暴力を終わらせる唯一の手段」と述べ、暴力に反対しながらも、暴力を避けることができない現実を認識している。そして、批判的思考と文学の役割について深く強く訴えている。
この引用から、「歴史に奉仕しうるのは、もはや否定性だけではない。たとい否定性がついには肯定性となるとしても。」と述べており、文学には単なる批判だけでなく、積極的な役割があると考えているのが見て取れるだろう。バトラーの提唱する非暴力の倫理もまた、既存の価値観を問い直し、新たな平等な関係性を構想する批判的営為なのである。そして、非暴力の力こそが暴力を終わらせる暴力とも僕は考える。
6.3.7.結論:非暴力の倫理と存在の意味
非暴力の倫理は、僕らが相互に依存していることを認識し、尊重することから始まる──存在の意味を探求することは、僕らがどのように生きるべきか、どのように他者と関わるべきかを考えること。最終的に、あらゆる存在は、共有する愛と悲しみによって、その真の意味を個々人それぞれに見出すときもあるかもしれない。
7.結論
7.1.存在の意味
僕の存在にも、蝶々の存在にも、何とかイズムというロゴスの存在にも、存在自体に意味などない。一定のリズムと調和ある旋律がニヒルな笑みを浮かべてやってくる。それらはすべて偶発的事象でしかなく、在るは在るなのだ。カミュの『シーシュポスの神話』におけるシーシュポスの物語は、存在の無意味さを象徴している。彼は永遠に岩を山の頂上に転がすという無意味な作業を繰り返すが、カミュはこの繰り返しの中に人生の意味を見出す。このように、存在の意味は個人が自らの経験の中で見出すものであり、外部から与えられるものではないのだ。
存在が無へと帰す寸前に、死を目の前にしたときに、存在の意味は、死を目前とした者たちにとって郷愁とともにもたらされるかもしれない。
だからこそ、存在そのものではなく、生き抜いてきた過程、それは個々にとってかけがえのないものであり、個々人には、大いに意味があるだろう。
嫌いな蝶々、だけれど、僕はサナギの中でドロドロに溶けて発狂し美しい羽を広げようとするあの蝶々の存在を尊重している。
〈表裏一体な二項対立〉は、〈あいまいさ〉と言い換えれるかも知れない。自然の神秘を忘れたあいまいさへの言及は他責への一歩でしかない。
あいまいを言い訳に主体性のなさを取り繕うことのいかに残酷なことか。
権力を振り回してその椅子にしがみつき、ありとあらゆるものを区別し、何もかもを搾取し踏みつけ破壊し、持つ者と持たざる者の格差をこれでもかというほどに拡げていくことに無頓着で卑劣極まりない人間たち。
他者の存在なくして自己を規定すらできない呪われた存在──それが人間かもしれない。
表裏一体の対立項は、この世のあらゆる事象の根源的な原理なのである。そして、人間実存そのものの根源的な特徴でもある。サルトルが言うように、人間存在には不可避的な曖昧さと矛盾が宿っている。しかしそれを直視し、統合へと高めていくことこそが重要なのだ。例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』における主人公ラスコーリニコフは、善と悪、罪と罰という対立する本質を内包している。彼の行動と心理の描写を通じて、人間の複雑な内面が明らかにされ、読者は人間の本質について深く考えるきっかけを得るだろう。人間の内面的な葛藤は、社会構造や文化的な枠組みにおいても同様に見受けられる。これにより、個人の経験と社会全体の動きが相互に影響し合うことが明らかになる。例えば、経済格差や社会正義の問題は、個人の価値観と社会的な要求との間の対立を示している。
また、バタイユが提唱する連続性と非連続性の弁証法は、社会的な進化と革命的な変化の間の緊張関係を反映している。例えば、有性生殖における精子と卵子の融合は、連続性と非連続性が渾然一体となった現象だ。生殖細胞が分裂し一時的に連続した存在となるが、ただちに非連続な2つの個体へと分かれていく。この生命現象における対立と統合の原理は、科学の理論から芸術の作品に至るまで、対になった二つの要素が渾然一体となることで、新たな次元の体験や発見をもたらしている。生命の連鎖そのものさえ、この原理に従っている。
人間も自他の二元性から逃れられない。しかし、人は自らの思索によって、対立を単なる二者択一ではなく調和ある統合へと高めることができる。蝶やジェンダーへの違和感も、そうした視座から生まれた批判の目なのだ。
対立を分断や排除と捉えるのではなく、対位法的に融合すべき契機とみなす。それこそがバタイユの説く至高の感性なのである。常に矛盾や対立に気付き、それを自己の内に凝縮することで、新たな自己を生み出していく。死を越えた存在の意味とは、そのような人間の可能性を指し示しているのかもしれない。バタイユ的な至高の感性を獲得し、対立を乗り越えた自己の新たな地平を切り開くことができるだろう。サルトルの掲げた主体的で自由な実存の可能性を、さらに深く追求する必要がある。
7.2.バタイユ思想の核心
──僕たちはバタイユの哲学から得られる啓示に耳を傾ける価値が今でもある。対立の中に調和を求めることが至上であることを認識しなければならない。単なる対立する要素とは異なり、対立の中での調和の重要性が浮かび上がる。したがって、自己や他者、蝶やジェンダーといった概念をより深く理解することが不可欠である。対立を超えて統合を促進する努力が求められる。このような努力こそが、人間の精神の頂点への光の道を照らすことであり、バタイユの尊い感性を具現化するものである。存在と意識の関係は、実に曖昧で対立にみちている。
サルトルが論じたように、意識はそれ自体では無──対象のない自由な透明性として現れるが、それ自体が実在の一部でもある。この対立を乗り越える視点こそが望まれる。
バタイユ思想から対立と調和の普遍原理を探求する理論的・実証的アプローチを試みたが、より実践的な方法論の確立が課題として残る。それは、追々やっていくとしよう。また、結論でわずかに触れた個の尊厳と時事、戦前、戦後、現代の日本、そしてそれにまつわる憲法についての改憲問題などの議論は別途エッセイで述べてきたりもしているが、総合的に組み込んだ論を練らねばならないだろう。
「人間の精神の頂点への光の道」「存在と意識の関係は曖昧で対立に満ちている」ことをサルトルは指摘した。しかし、人間存在がはらむ有限性という側面については、さらに掘り下げる必要がある。
カンタン・メイヤスーは著書『有限性の後で』で、人間が自らの有限性と対峙する際の在り方について考察している。また、意識についてサルトルを批判してもいる(註釈5.)。僕らは必ず死を迎えるがゆえに、人生とは一回性のものであり、そこに意味を見出さねばならない。メイヤスーは「私たちは有限で、しかし生は無限なのだ」と説く。つまり個人は有限であっても、生そのものは世代を超えて永遠に連なっている。ここにメイヤスーが言う「調和」の契機が潜んでいるのではないか。個人の一回性の人生と生そのものの永遠性、このような対立項を「分断」や「排除」ではなく、バタイユ的な視座から〈対位法的に統合すべき契機〉と捉えることで、全てを包み込む高次の調和が見出せるかもしれない。
死を前にした人間にとって、バタイユの連続性と非連続性の弁証法は、実に切実なものとなる。誕生から死に至る一生の連続性と、やがて訪れる非連続的な断絶。この対立を乗り越える「至高の感性」こそ、人間が自らの有限性を受け入れ、調和ある実存を手にする鍵かもしれない。
春、陽光の朝、カラヤン指揮ベルリンフィルのマーラー『交響曲第五番』「第四楽章アダージョ」を聴きながら、こうして黒と白の記号を羅列している。マーラーの持つ深い感情表現や人間の内面世界への洞察はバタイユの尖った思想とどこか共鳴するようだ。音楽の休止符は次の感情の高まりを呼び覚ます──静寂、沈黙。廃墟同然となった瓦礫の家の前、雨の中、立ち尽くす少女が誰かのぬくもりにはにかむ姿が見える。(註釈6.)
僕は人間嫌いだ──儚くも脆く、傲慢この上ない愛すべき人間。
註釈
1. A. Einstein; B. Podolsky, and N. Rosen (1935). ”Can Quantum-Mechanical Descrip- tion of Physical Reality Be Considered Complete?”. Phys. Rev. (The American Physical Society) 47 (10): 777-780.
EPRパラドックスは、量子力学の基本的な特性である「量子もつれ」が、局所性を破ることを示唆するため、相対性理論と矛盾する可能性があるという問題を提起する思考実験。
このパラドックスは、アルベルト・アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンの3人の科学者によって1935年に提唱された。
EPRパラドックスでは、2つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を測定することで、もう一方の粒子の状態が即座に決定されるという現象が起こる。これは、粒子間に何らかの超光速での通信があるかのように見え、相対性理論が禁じる超光速の相互作用と矛盾するように思われる。
しかし、この「瞬時の影響」は、実際には量子もつれ状態特有の非局所性として理解されており、量子テレポーテーションや量子暗号などの技術の理論的基礎となっている。EPRパラドックスは、量子力学の解釈に関する重要な議論を引き起こし、物理学における根本的な問題を浮き彫りにした。詳細は『アインシュタインのパラドックス――EPR問題とベルの定理』1:アンドリュー・ウィテイカー著、訳 和田純夫 岩波書店を参照せよ。
2.理性や秩序から解放された、狂騒的で生命力あふれる存在の源泉。これは、生命の本質的なエネルギーと創造性を象徴し、激情や直感、自己超越への欲求を包含する。
ディオニュソスとはギリシャ神話で、酒の神。 もと、北方のトラキア地方から入ってきた神で、その祭儀は激しい陶酔状態を伴い、ギリシャ演劇の発生にかかわるともいわれるニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつものを「ディオニュソス(Dionysos)的」と表現する。『悲劇の誕生』ニーチェ著にて取り上げられているが、『権力への意志』ニーチェ著で、広範な射程にまでこの特徴を省察している。
3.『悪の華』ボードレール日本語訳は、訳 堀口大學 新潮文庫、『文学の悪』ジョルジュ・バタイユ ちくま学芸文庫および『ボードレール』サルトル 人文書院を参照せよ。
4.サルトルは『新しい神秘家』(『哲学・言論言語』サルトル著 訳 清水徹 人文書院)の中で次のように批判している。
5.サルトルへの言及は、意識と外部世界の関係についての議論の中で行われている。
サルトルは、意識が世界に対して自己超越するという考え方を提唱した。彼の哲学では、意識は常に何かに向けられており、その意識の対象によって定義される。サルトルによれば、意識は世界の方へ「炸裂する」と表現される。これは、意識が能動的に世界に向かって開かれているという彼の見解を示唆している。
しかし、メイヤスーはこの見解に対して批判的立場をとる。サルトルの考え方は、意識が世界に開かれていると同時に、僕らは言語と意識の「透明な檻」の中に閉じ込められているという矛盾を隠していると指摘。つまり、僕らは自己と世界の関係性の中で生きており、その関係性を超えて世界を客観的に把握することはできないということだ。
この部分は、相関主義がどのようにして主体と客体の関係性を中心に据え、僕らの認識がこの相関関係に依存しているという考えを強調しているかを示唆。また、僕らが世界をどのように経験し、理解するかについての根本的な問いを提起している。
6.戦争紛争地帯や災害地での犠牲者、差別と格差に苦しむ人々や理不尽な環境破壊を指す。
参考文献
『太陽肛門』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 景文館書店
『ヒロシマの人々の物語』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 景文館書店
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井健 ちくま学芸文庫
『文学の悪』ジョルジュ・バタイユ 訳 山本功ちくま学芸文庫
『ボードレール』サルトル 訳 佐藤朔 人文書院
『ヒロシマ』ジョン・ハーシー 訳 石川欣一/谷本清/明田川融 法政大学出版社
『存在と無』サルトル 訳 松浪信三郎 河出書房
『哲学・言論言語』サルトル著 訳 清水徹 人文書院
『一九四七年における作家の状況』『文学とは何か』サルトル 訳 白井健三郎/海老坂武 人文書院
『Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity』
Judith Butler,Routledge
『The force of nonviolence』 Judith Butler,Verso
『悲劇の誕生』F.W.ニーチェ 訳 秋山英夫 岩波文庫
『文学とは何か』加藤周一 角川ソフィア文庫
『アインシュタインのパラドックス――EPR問題とベルの定理』1:アンドリュー・ウィテイカー著、訳 和田純夫 岩波書店
『ジェンダー概念の意義 と効果』上野千鶴子 『学術の動向』vol.11, no.11, pp.28-34, 2006-11-01 (Released:2009-12-21)
『悪の華』ボードレール 訳 堀口大學 新潮文庫
『シーシュポスの神話』アルベール・カミュ 訳 清水徹 新潮文庫
『罪と罰』ドストエフスキー 訳 工藤 精一郎 新潮文庫
『不滅』ミラン・クンデラ 訳 菅野昭正 集英社文庫
『日本国憲法改正草案』自民党憲法改正実現本部
『有限性の後で』カンタン・メイヤスー 訳 千葉雅也他 人文書院
以下、本エッセイに影響したもの
引用と考察詳細を後日別途
『権力への意志』ニーチェ 訳 原佑 河出書房
『有と時』ハイデッガー 訳 辻村公一 河出書房
『ベンヤミン・アンソロジー』ベンヤミン 河出文庫
『実存から実存者へ』レヴィナス 訳 西谷修 ちくま学芸文庫
『全体性と無限』レヴィナス 訳 藤岡俊博 講談社学術文庫
『存在の彼方へ』レヴィナス 訳 合田正人 講談社学術文庫
『The nature of order』Christopher Alexander
関連エッセイ