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ひいおじいちゃんの軍隊手帳 終戦記念日前に思うこと

8月15日は終戦記念日。
今年で77回目となる。

実際に軍隊に所属して兵隊や少年兵として戦地で戦争体験をされた方々は、おそらくご存命の方も100歳前後となるのではないだろうか。

1915年生まれの曽祖父は、陸軍の軍人学校を卒業後、1934年あたりから満州で関東軍に配属され騎馬兵として任務についた。職業軍人だったようだ。
昭和16年に戦闘による負傷(爆撃による指欠損と腹部欠損)で、日本へ帰国。
恩給証明書を発行されるも、昭和18年には再度、陸軍の管轄する逓信部門で軍務に終戦まで携わった。その後、しばらく、そのまま旧郵政省の電波研究所に勤務した。

旧日本軍の中国での行いを目の前で見てきた曽祖父。
祖父によると、終戦後も長い間、戦争のことをあまり語りたがらなかったらしい。
また、終戦後の180度変わった社会風潮にもなかなかついていけず、辛い体験や色々と思うこともあり、話せなかったのかもしれない。

やがて孫が誕生したり、ひ孫が誕生したり、時代が移りゆく中で、体験を話しておこうと思ってくれたのかもしれない。

僕の父や僕らに、満州でのことや終戦直前、直後のことをたまに話してくれた。

子どもだった為、遠慮や配慮を知らず、しつこく兵役で突撃のときのことや銃剣訓練のことを尋ねた。子どもにとっては刺激が大きく、何度も飽きずに聞いていた。
その度に曽祖父は当時の軍歌やラッパを吹く真似をして、自分が馬に乗っていたことから、馬の真似をしたりしながら話してくれた。

2014年に99歳になる少し前に亡くなった。

関東陸軍として任務していたとき、捕虜に自分で穴を掘らせて軍刀の試し切りをする上官を傍観するしかなかった曽祖父。

顔が互いにはっきりと識別できるほどの至近距離で「着剣用意」の号令と突撃の合図のラッパが鳴り、「天皇陛下万歳」と言いながら突撃した。
躊躇すれば後方で軍の規律を正す部隊が見ており、叛逆と見なされ銃殺される。
何度も戦友を失った。銃撃戦の中、死にゆく戦友たちは、天皇陛下万歳ではなく、「家族によろしくお願いします」と言ったり、写真や形見のようなものを託す方もいらっしゃったそうだ。

誰かは、「そんなことはやっていない」とするかもしれない。

でも僕は曽祖父の時々胸を詰まらせながら語ってくれたことを信じる。

教育とは、学校教育だけでなく、やはり世代を超えて語り継ぐことから学べる教育、歴史を語り継ぐこと、直接聞くこと、も軽視できない。
そうでなければ、過去を反省し、現在、未来へと活かせないまま、同じような過ちを繰り返す。
そして、過去の全体主義的な思想統一や侵略と従属の兆候があったとしても、見過ごしてしまうのではなかろうか?

もし、当時の戦争体験から命からがらに生き延びようと必死だった方々が、今の世の中を見たら、どう思うのだろう。

また、こうしたことは日本だけではない。
どの国でも同じであろう。

核家族が当たり前のような今の時代、分断から融和へとひとりひとりの考えや感情が方向転換するには、世代を超えた語り部の話を思い出したり、耳をすませたりすることも、ひとつのヒントになるように思える。

曽祖父の軍隊手帳には戦陣訓と兵役年、兵役前履歴と朱字で軍人勅諭が載せられている。

2度目の任務の際付与された軍隊手帳

生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

思想戦は現代戦の重要な一面なり。

捕虜になる前に自決せよ、という訓令のようだが、曽祖父は、何がなんでも生き伸びて帰ることをモットーにしていた。
思想の統一に対し、自分の考えを述べることなど論外であった時代。

曽祖父は、毎回、機関銃と爆撃によって指を4本飛ばされて、腹を撃ち抜かれた時のことを振り返り、孫である父、ひ孫である僕らに、話の締めくくりにこう言った。

「何があっても、乗り越えられなくても、生きて生き延びないとだめだよ」

仁義礼節に重きを置くこと
弱い立場の人々を助けること
喧嘩をしないこと
お母さんと兄弟を大事にすること
何があっても、たとえ乗り越えられない状況下であっても生き抜くこと

曽祖父がいつも語ってくれていたこと

もっとたくさんのことを話してくれたけれど、僕が書いていいのか、かなり躊躇する。

手帳の兵役には

昭和十八年 現役

と書かれていた。


娘には、いつか聞かせてあげよう。

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