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たしかさと新しさのシーソーゲーム #19
カフェにて。
入れ替わり立ちかわり、だれかが来て、何かをして、去っていく。
私はなんらかの作業をし、止め、他の作業をする。
私が来た時には誰もおらず、帰るときには誰もいなくなっている。
ただの生成変化の両端の、“かりそめのたしかさ”が心地良い。
私は”たしかな”場を求めているのか。
土台。気分にぴったりの土台。
でも、毎度同じでは、場に飽きて頽落する。だから、私は同時に”新たな”場を求めている
ヒマな時の作業の分類と導線 #16
仕事などのやるべき作業が無い時に、”気分に合わせて”どのような作業を、どのような割合で選ぶべきか考える。
作業の分類。
①制作的作業
総合と分解を繰り返す作業。
論理的思考を伴う生産的作業。
例えば、文章を書く作業。計画を立てる作業。
②没頭的作業
むさぼるように向き合う作業。
栄養補給的、暴食的作業。
例えば、本を読む作業。作品を観る作業。
③散歩的作業
好奇心の向くままにおこなう作業。
SNSの喧噪にどう向き合うか #15
Twitterで誰かを攻撃する人々。
なぜ、攻撃するのか。そんなに考えていないのだろう。ムカついたから、攻撃する。それだけ。
攻撃するやつ。擁護するやつ。仲裁しようとするやつ。茶化すやつ。
至る所で議論・口論が起こる。学者、ビジネスマン、無職、学生、フリーター、老若男女が色々な所で攻撃・擁護を重ねる。
もしかして、実は人類はかつてないスピードで新しくなろうとしているのかもしれない。
ここまで多様
モノクロ・色彩・“いき” #14
私の視覚を、モノクロに切り替えたいと思う瞬間。
移動中
会話中
作業中
色彩は情報量が多すぎる。脳がつかれる。頭痛が起きる。
作業への没頭が妨げられる。
それでは色彩があってほしいとおもう瞬間はいつか。
部屋の中に一人でいる時
パノラマに臨む時
おいしい匂いがする時
なんらかの目的をもった作業をしておらず、かつ“何か”を受容したいと欲している時だ。
“何か”とは。
栄養?生の感覚?欲望?
ポケモンからの卒業か #13
どうやら10分後にポケモンダイレクトにて重大発表があるとのこと。
色々憶測が飛び交っているが、「ダイヤモンド・パール」のリメイクの発表なのではないかというものも多々見られる。
私がポケモンのゲームで最後にプレイしたのが、約10年ちょっと前の「ダイヤモンド」であった。
プレイ初日に塾をサボってリビングのソファの上でDSで起動するときのワクワクした感覚を、今でも鮮明に覚えている。
これまでのポ
「“ズバリ“言うわよ」 #11
昔のテレビ番組で、自分の本音の意見を言う時に「ズバリ」と枕詞をつける占い師がいた。
殴る瞬間にバギッ!と自分で効果音を言っているのと同じ。
「私がこれから言う事は本質をついているからよく聞いてね?じゃあ言うわよ。」ということなのだろう。
このようなレトリックは、話を“わかりやすく”伝えるためには良いのかもしれない。
しかしわたしたちが日常でこのような表現を使う時、当然、実際の現象の多くをそ
頭痛を予防する #09
近所に外出すると、たまに頭痛が来る。
友人と喫茶店で会うと、頻繁に頭痛が来る。
友人らとどこかで遊ぶと、ほぼ必ず頭痛が来る。
目の前の1つの物事に集中することは苦手ではない。
目の前の状況が漠然としていたり、多くの人や物事が絡まって状況が進んで行く場合は、集中することが苦手である。
私の頭痛は、集中することができていない状態、つまり脳が充分回転していない状態の時に、多くの情報を脳に入れようとす
目線の先の現象 #07
街中で他人と目線が合わないことが、地域のつながりが希薄になりつつあることの象徴だと、宮台真司さんが言っていた。
目線があうということ。
目線が合って会話をすることがないから、虚像が膨らむようになった。
虚像と現実とのギャップをみて苦しみ、現実を呪う。
虚像を現実に無理やり重ね合わせて、誰かに心酔したり、傷つける。
かれらは現象の屈曲に沿ってそれを把握しようとしない。
なぜか。骨が折れることだか
頽落の時間にメンテナンスを #06
何かを始めることが億劫。
始めても集中ができない。
好奇心が拡散している上に弱い。
思考体力を使わない上に退屈しない、しかし栄養が無く精神に害のある、まるでジャンクフードのような情報に身を埋没させている。
没頭ではなく、埋没。何も目指しておらず、身動きがとれない。
これをすればおそらく頽落から抜け出せるとわかっていることでも、手を出すことができない。
重要なのは今の自分の気分に合わせて“何かを
直観について #05
ベルクソンが言っていた。
どうやらフッサールの言う本質直観とは異なるのだろう。
むしろ本質や言語の規定を排除した先のものであるのだろう。
言語によって本質を捉えようとするのではなく、むしろ生成変化を切り取らずに捉えようとするような試み。
禅的直観とも近いような気もするが、禅のそれは静的なイメージがある。
“なんとなくこんな感じがする”ということを大事にしていたい。
これを言語で説明しようとする時