直観について #05

ベルクソンが言っていた。
どうやらフッサールの言う本質直観とは異なるのだろう。
むしろ本質や言語の規定を排除した先のものであるのだろう。
言語によって本質を捉えようとするのではなく、むしろ生成変化を切り取らずに捉えようとするような試み。
禅的直観とも近いような気もするが、禅のそれは静的なイメージがある。

“なんとなくこんな感じがする”ということを大事にしていたい。
これを言語で説明しようとする時にはもう、この感覚は薄れ始めている。
その“感じ”を、動的に捉えたい。

とはいえ、無論、視覚聴覚を捉えるような映像を用いてもその“感じ”は保存されない。記憶の栞としての役割しか果たさない。
写真も同じ。

触覚、嗅覚も動員して五感に体験させておく。
メモと写真と映像を駆使して、五感で生成を捉えようともがく。

そもそも、捉えきることができないということが、生成変化、“この感じ”の重要な特徴だろう。固定できず、捕まえられず、捉えどころもない、しかし確かな、流れ。
ベルクソンの直観の方法を学びながら、それを保存・伝達する方法を考える。

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