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【小説】透明の家 《第七話 前編》

【コンシェルジュ:深海愛美】


 ──油断した。


 そうだ、この人は、私が思っていた以上に面白い人だった。


 私はサンタ帽を被りながら真っ白でボリューミーな付け髭をつけ、得体の知れない吹き戻しを手にしている深海さんに手土産を渡しながら、必死に笑いを堪えていた。


「北条様、お差入れありがとうございます」


 お礼だと言わんばかりに、ピョロロロ~っと吹き戻しを吹きながら頭を下げる深海さんに、思わず私は吹き出してしまった。


「あははっ!なんですか、それ!そんな大きいの、初めて見ました!」


 先端が幾重にも分かれている吹き戻しは、伸びると深海さんの顔を隠すほど大きく広がった。まるで巨大な枝のようで、あまり表情の変わらない深海さんとのミスマッチさが、さらに笑いを誘い出す。


「ネットで発見いたしまして、即購入いたしました。私、肺活量には自信があるのです」
「ああ!カラオケの時も素晴らしかったですもんね!」

 そう。入居してから私がイベントに参加したのは今回が二回目なのだ。

 前回はカラオケ大会だった。
私とパートナーである南さん、先輩である三船さん、その他の入居者も交えて和気あいあいと行われた懇親会だった。私はというと結構真剣に優勝を狙っていったのだけれど、深海さんがまさかの強敵で、あろうことか私は優勝を逃してしまったのだった。

 しかし一切の悔しさを残さないほど、彼女の歌声と声量は素晴らしいものだった。

「今日も何か歌ってくれたりします?」
「ふふ。お酒が入ったら歌ってしまうかもしれませんね」

 私の誘いを軽くいなしながら、深海さんは私が差し入れた手料理をテーブルに並べ始める。

「北条様のお料理はとても美味しいので、きっと皆様も喜ばれます。ありがとうございます、北条様」 

 改めて深々とお辞儀をされると、なんだか気恥ずかしくなってしまった。私は料理を作るのが趣味なだけのただの一般人なのに、深海さんに褒められるとまるで一流シェフになったように誇らしくなってしまうのだ。

 ロビーにはクリスマスソングが流れている。
 
その三分の二ほどの面積をお洒落なパーテーションで区切っている。中には丸テーブルやソファなどが、それぞれ複数台セッティングされていた。

 いつものことながらこの懇親会は自由参加だ。

パーティーに参加しない住人が帰宅や外出する際に、私たちと目が合って気まずくならないようにという計らいだろう。深海さんはそういう気遣いがとても上手い。

「今日は何人くらい来るんですか?」
「本日は二十名弱ですね。年末のお忙しい時期にお集まりいただけるなんて、主催者冥利につきます」

 ああ、だからといって無理に参加してほしいという訳ではございませんよ?

 ピョロロロ~っと再び吹き戻しを吹きながら、深海さんが付け加えた。
私は料理に唾が飛ばないように咄嗟に顔を背けて、口に手を当てながら必死に笑いを押し殺した。

「本日は入居希望者のお二人もいらっしゃるのです」
「へぇ!新しい入居者がまた増えるんですね!」
「いえ、入居するとは決まっておりません」
「……え?でも、ここ、部外者は立ち入り禁止では?」
「左様でございます」

 深海さんは口の端をキュッと上げて、三日月みたいな弧を描いた。
きっと彼女のことだから何か考えがあってのことなのだろう。私は一瞬たりとも疑うことなくそう思えるくらいには、彼女のことを信頼していた。

 パーティーの開始時間まで、あと少し。

次々に集まってくる住人たちは世間話をしたり、準備の手伝いをしたりして浮き足立っているように見えた。

 今まで私はクリスマスになるとどこか後ろめたい、うっすらとした仄暗さを抱えながら過ごしていた。

だけど、今年は違う。

もしかしたら、ここにいる人たちもそう感じているのかもしれない。

うきうきとした雰囲気で歩き回る彼らは、まるでサンタを心から待ちわびている子供のようだ。

 人口密度が高くなってきた会場を見渡していると、衝立の向こう側から見慣れた顔がひょっこりと顔を出した。

「あ、南さん!お疲れ様です!」

 元気に声をかける。
パートナーにというより、同僚に声を掛けるような調子で。

 南さんは私を発見して安心したのか、頬の力をふっと緩ませた。そしてそのまま、車椅子を押して会場に入ってくる。

 彼が押してきた車椅子には、彼の奥様の『カナデさん』が乗っていた。

私は二人に駆け寄り、「こんばんは、カナデさん!」と、彼女の目線に合わせて挨拶をした。

南さんの愛妻であるカナデさんは、等身大のお人形だ。
いつも明るい笑顔のまま真っ直ぐ前を向いている。
たとえ彼女に挨拶をしたところで、返事が返ってくることはない。
そんなことは分かっている。
だけど、これは私たちの中の暗黙のルールなのだ。

 ──しかし。


《こんばんは、北条さん!》


……喋った。
人形の彼女が。


口が動いていた訳ではない。
表情は動かず、固いプラスチックのままだ。

私が呆気に取られて、ボーッと彼女を見つめていると、南さんの声が上から降り注いできた。



「AIでカナデの人格を形成したんです。まだぎこちない部分はあるけど、簡単な会話ならできるんですよ!それを、もともとあるカナデの音声ソフトで読み上げさせて……」


 ワクワクといった感情を隠しきれない様子で、楽しそうに話し続ける。


「ここにね、カメラを設置してあげて顔認識もできるようにしたんです。だから北条さんのお顔も……って、すみません!先日のカラオケ大会の写真から、北条さんの顔を勝手にカナデに覚えさせてしまいました。すみません……」


 一秒前まで意気揚々と語っていた南さんのテンションが突然下がり、いつもの猫背気味の彼に戻ってしまった。


「……すごい」


 素直にそう思った。


 私はシステムについては全くの素人だ。
そういった技術があるということは知っているけど、実際にそれらを作っている人は遠い雲の上の存在だと思っていた。しかし、その遠い存在は実在していたらしい。それもこんなに身近に。


「愛って、すごい」


 南さんは彼女に人格を与え、声を与え、視覚を与えた。
無機物的な滑らかさを持った彼女の皮膚の下に、熱い血潮が流れているような気さえした。

素晴らしい技術の根本には、南さんの彼女への愛が確かにあるのだ。
それが私には何よりも尊く、眩しいものに感じられた。
南さんは私の独り言のような呟きに、顔を真っ赤にして照れていた。


 パーティーが開始する前に手を洗ってこようかと思い、エントランスの奥にあるトイレに向かった。

ガラス張りの向こうには、品格を損なわない程度の控えめな電飾が施された街路樹が見える。つい最近まで赤や黄色の葉をこんもりと蓄えていた街路樹が、今では真っ裸だ。寒々しく空に向かって伸ばしている枝の隙間から、人影がチラッと見えた。

 服装の系統が異なる男女二人組が、揃ってこちらの様子を伺っている。
私はあっと声をあげて、深海さんを呼びに行った。



 案の定、彼らは先ほど深海さんが話していた入居希望者だった。


一人は俳優のようにシュッとした目鼻立ちの男性で、会社帰りのサラリーマン風な出立をしている。

もう一人は派手めな若い女性だ。ふんわりと巻かれた豊かな銀色の髪が、とても似合っていた。


 深海さんは二人を迎え入れ、私たちのいる会場へ案内した。


 男性の方はどうやら南さんの知り合いだったらしく、彼を発見した途端に安堵した表情を浮かべて彼に話しかけていた。

ただ、カナデさんのことは知らなかったみたいで、一度だけ彼女をちらりと見て、その後はそこに何もないような顔をして南さんと話し続けていた。

 もう一人の女性はどうにも所在なさげな様子で、長い爪を付けた指に髪をくるくると絡めて壁際に立っていた。

私が「よければ隣に座りませんか?」と声をかけると、猫みたいなきれいなアーモンドアイをまん丸にして、控えめにコクリと頷いた。

 まだあどけなさを感じさせる彼女がどうしてここに入居したいのかということは、聞かないでおこうと思った。



「皆様、本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます」



 クリスマスソングをBGMに、朗々した声がロビーに響く。パーティーの始まりだ。

「私はクリスチャンではございませんので、クリスマスは単なるイベントだと思っております。企業の販売促進戦略の一環だとしても、楽しめるものは楽しむ主義でございます」

 そう言いながらピョロロロ~ッと吹き戻しを伸ばす。会場がドッと沸いた。どうやらみんな、彼女が本当はひょうきんな人間だということを知っているらしい。

「いつもながら、こちらの懇親会は自由参加です。途中からご参加いただいても、途中で退席されても問題ございません。どうぞごゆるりとお過ごしください」

 深海さんは私や他の参加者からの差し入れについて一人一人丁寧にお礼を言った後、シャンパングラスを手に取った。会場のみんなもそれぞれテーブルに置いてあったグラスを手に取り、掲げる。


「どうかこの夜が、皆様にとって良い思い出になりますように。乾杯!」


 キィンッという薄く軽やかな音が各所で鳴り響いた。

ビュッフェ形式に並べられた料理に、人がわいわいと群がってくる。私の持ってきた料理も売れ行きが良いらしく、私は一人でにんまりとほくそ笑んでしまった。

「ハル様、ナツ様。本日はようこそお越しくださいました」

 挨拶を終えた深海さんが、入居希望者の二人に歩み寄る。
二人は揃って小さな紙の切れ端を彼女に渡した。それは半分にちぎられた箸袋だった。


「確かに、チケットを拝見いたしました」


 ……チケット?これが?

 どこからどう見てもただの割り箸の袋にしか見えないそれをじっと眺めていると、深海さんが不意にふっと笑顔を浮かべた。

「今日はぜひ、いろいろな入居者の方のお話を聞いてみてくださいね」

 二人にそう言い残し、彼女は裏方の仕事へと戻っていった。


 私と南さんはとりあえず料理を持ってこようと二人を誘い、お皿に色とりどりのご馳走をこんもりとよそって席に戻った。

 入居希望の二人、私、南さん、カエデさんの五人で一つのテーブルを囲む。


「えっと、私は北条っていいます!お二人は……」


 目の前に座っている二人はほんのわずかに困った顔をして、顔を見合わせた。


「ここでは『ハルさん』と呼ばれていますね。彼女は『ナツさん』です」
「……どうも」


 男性の方──ハルさんは人好きのする笑顔を浮かべて答えた。営業向きの人だなと思った。一方のナツさんは人見知りするタイプのようで、まだ少し強張った顔でペコリと頭を下げた。


「あの、北条さんと南さんは、パートナー……ですか?」


 ハルさんが何やら期待したような声で尋ねる。キラキラした目が眩しくて一瞬だけ目を細めた。

「そうですね。今年こちらに入居して、パートナーになりました」
「そうだったんですね!南さん、ご結婚されてから何だか明るくなられたので、すごく気になっていたんです、ここのこと」

 南さんは頬を染めながらてれてれと身を捩っていた。

「まさか北……、いや、ハルさんがここに興味を持ってくれるとは思いませんでした」
「信頼する南さんのおすすめだったので、安心して信じられたんです」
「最初、変な宗教じゃないかって疑っていたじゃないですか!」
「ははは!それはまあ、最初はね?」
「あはは!私もはじめ誘われた時は疑ってたな~!」

 何だがずいぶん昔のことのように思える。だけどよく考えてみれば、あれから一年も経っていないのだ。

 あの時、ここを訪れていなかったら、こうして穏やかな気持ちでクリスマスを過ごすこともなかったのかもしれない。
 目の前の人たちと、一生話す機会はなかったかもしれない。
そう考えると、縁とは不思議なものだなと感じずにはいられなかった。

 穏やかな会話の間にも、南さんはカナデさんへの配慮を怠らなかった。

 「これ、美味しいよ、カナデ!」

 自分が一口食べてから、彼女の口元までスプーンを持っていく。うっすらと桃色に染まっている唇は動くことはないけれど、彼は幸せそうな笑顔で妻の顔を見つめていた。

「彼女、いつも少食なんですけど、今日はすごくたくさん食べてくれてます!」
「それはよかった!カナデさん、どれが一番好き?」

 私は彼女の視界に入るように頭を傾けて、出来る限り聞き取りやすいように発音して尋ねた。


 《ローストビーフ!》


 彼女の後頭部あたりに設置してあるスピーカーから返答が返ってきた。

「ローストビーフ!これ、私が作ったんだよ!嬉しい!」

 その答えはただの偶然かもしれない。だけど、私はまるで彼女に認めてもらえたように感じて、図らずもひとり有頂天になってしまった。

 その後も、南さんはいろいろな料理を彼女の口に運んでは皿に戻すという動作を繰り返し、最後に奥さんの唇を紙ナプキンで丁寧に拭った。

 私は何度もこの光景を見ているから、「ああ、本当に彼女のことが好きなんだなぁ」としか思わないが、目の前の二人は予想通りの顔をして彼らを凝視していた。

「えっと──、彼女はここのマスコットキャラクターか何かですか?」
「あ!すみません!紹介し遅れました!」

南さんはいそいそと彼女の背後に立ち、彼女の肩に手を添えると、


「僕の妻のカエデです!」


と、胸を張って言い切った。まっすぐに正面を向いて言い切る彼は、入居の時とは全くの別人のように堂々としていた。


「妻……?」


 ハルさんとナツさんが、なぜか私の方を向いて尋ねる。


「奥様です」


 私は力強く頷き返して、ニコッと笑った。

「り、理解してもらえないかもしれませんが、僕は、その……、彼女のことを本気で愛しているんです!」

 二人はパカッと口を半開きにしたまま、カナデさんと南さんを交互に見つめていた。

 初めてその話を聞いた時、私もきっとこんな顔をしていたのだろう。今考えると、自分は結構柔軟な対応能力を持っていたのではないか思う。そのおかげで、この生活を手に入れることができたのだから、私は過去の自分に感謝したいくらいだ。

 ハルさんとナツさんはやっぱりまだ驚きを隠せない様子で、視線をあちらこちらにせわしなく動かしていた。


「……北条さんは、いいんですか?」
「え?」
 ハルさんが気まずそうに尋ねる。
「私?」
「はい」
「いえ……、いいもなにも、私が介入することではありませんし」
「……」
「それに、南さんとカエデさんが幸せそうなら、それでいいじゃありませんか!ねっ?」


 私の回答に、ハルさんはどこか不服そうな表情を浮かべていた。
ナツさんはというと、カエデさんの顔を様々な角度からジロジロと眺め、何やら考え込んでいる様子だった。


「いや~!乾杯の音頭には間に合わなかったかぁ~!」
「やはり定時退社は難しいですね」
「ですね!でもまだ始まったばかりみたいでよかった!」


 ガヤガヤとした会場の入り口から聞き覚えのある声が聞こえた。
 三船さんと氷川さんだ。

 二人ともスーツ姿のところを見ると、どうやら帰宅してそのままここへ直行してきたらしい。


「お帰りなさい!三船さん、すいません。本日は有休をいただいてしまって」
「いや、有休は自由に取得してもらわないと!それに、北条の料理、私も楽しみにしてたからさ!」


 三船さんがジャケットを脱ぎならが屈託のない笑顔で答える。


「ああ、お腹すいた!今日はこのためにお昼少なめにしてきたんだ、私」
「俺もです。三船さんから北条さんの料理の腕前をお聞きしていたので」


 隣にいる氷川さんも、表情こそ動いていないが、どこかしらソワソワとした様子で料理の置いてあるテーブルに目をやっている。


「あ!氷川さん!あのツリーにあるジンジャークッキーも食べていいみたいですよ!」
「ジンジャークッキー……!」
「取ってきましょう!」


 二人は席に腰掛けることもなく、忙しなく料理を取りに行ってしまった。


「あのお二人も、パートナーですか?」


 ハルさんが彼らの背を見つめたまま問いかけてきた。


「そうです。女性は私と同じ会社の上司で、私より少し前にここに入居しましたね」
「……何だか、対照的なお二人ですね」


 ハルさんがそう口にした途端、ガンッという鈍い音がテーブルの下に響いた。それと同時に、彼が苦悶の表情を浮かべる。
 隣にいたナツさんが不自然にそっぽを向いているところを見ると、どうやら彼女がハルさんの足を踏んだらしい。


「そういうの、偏見って言うんじゃないの?」


 彼女のトゲトゲした声に、その場の空気に緊張が走る。
 私と南さんはその場を和ませようとやたら饒舌になって語り始めた。


「二人とも仕事熱心だし、物事の考え方とか……そういう面では似てるんじゃないですかね、きっと!」

「そ、そうですね!ここではお互いに自立している関係ですし、合う合わないっていうより、程よい距離感を保てることの方が重要なんじゃないかなぁ!」


 ナツさんが「それみたことか」と限界まで細めた目でチラリとハルさんを見る。彼は何か訴えたそうに口をぱくぱくさせていたが、そこはさすがの年長者。


「……そうですね、大変失礼しました」


と、落ち着いた笑みを浮かべながら胸中の思いを飲み込んでくれた。



「凄い数のご馳走だね!全種類制覇したいくらい!」
「デザートの種類も豊富ですね」

 お皿に山のように料理を盛った二人が戻ってきて、この場が再び穏やかな空気に包まれる。私たちはクリスマスのご馳走を頬張りながら、お互いの近況を報告しあった。

 やれ話題のスイーツのお店が近くにできただとか、やれ面白いアプリがあっただとか、あっちこっちに話が飛んでいく。
 
 一見中身もまとまりもないこの会話が、私にとっては心地よかった。

 何の気兼ねもなく、好きなものを好きなだけ語っていい場所というのは、大人になるととても希少なものだ。

 それに、自分とは違うものに興味を持っている人の話というのは、すごく興味深い。私では気づけない世界を、その人のフィルター越しに覗かせてもらっている気分になる。
 立場が違うからこそ、新しい発見ができるのだということを改めて感じられる、この時間が私は好きだった。


 ハルさんとナツさんもこの雰囲気を気に入ってくれたようで、だんだんと打ち解けてきてくれた。
 

 最初は恐々とこちらの話を聞いているだけだったナツさんも、次第に口数が増え、積極的に会話に混ざってきてくれるようになった。


「この子さ、もう少しリップの色、明るめでも似合うと思うんだけど」
「く、口紅のことですか?」
「そう。あとさ、チークとか髪型とかもさ……」


 ナツさんはカナデさんの隣に移動しながら、自分のメイク道具を取り出して南さんに説明をしだした。南さんは彼女の着眼点に目を丸くしながらも、きちんとメモを取りながら一生懸命彼女の話に耳を傾けている。
 隣で見ていた三船さんもヘアクリップや整髪スプレーを貸し出し、氷川さんがそれぞれの化粧品に含まれている成分について語り始める。
いつしかそこは三人によるメイク講座会場と化していた。



「……何だか、生き生きしてますね、みなさん」



 ハルさんはシャンパングラスを片手に呟いた。

「そうですね。ここは、それが許される場所ですからね」
「『それ』?」
「自分らしくいること、です」
「……」

 彼はどことなく寂しげな目で、明るく楽しげな声が響く会場を見渡した。


「……そうですか」


 彼はこの明るい会場には似つかわしくないほどの沈み切った声色で答えた。
 ここにくる人にはそれぞれの事情がある。それは他人が不用意に踏み込んではいけないものだ。だから彼が何を求めてここに入居したいのかを尋ねることはできない。だけど。


「……私、距離があるからこそ、相手を大切にできる場合もあると思うんです」
「え?」
「恋人だから、夫婦だから、家族だから。そういう関係性に甘えすぎて相手を傷つけてしまうということがここでは起きにくい」
「……」
「こういう関係、私は悪くないと思うんです」


 目線の先でわいわいと騒いでいる入居者たちを眺める。暗い表情をしている人や、背中を丸めている人は、誰一人としていなかった。


「まあ、あくまで私の感想ですけどね!」


 真面目に語ってしまった自分が少し恥ずかしくなってしまい、思わず笑ってごまかした。ハルさんはにこりと笑い返してくれたけど、彼の顔に差した影が完全に消えることはなかった。



「ハル様、ナツ様。お楽しみいただけていますでしょうか?」


 会場の人混みを縫いながら、深海さんがこちらに歩いてきた。
苺のショートケーキが乗ったトレイを華麗にさばきながら各々の前に配膳していく。


「こちら、クリスマスケーキでございます。どうぞお召し上がりください」


 まるで雪のような生クリームの上に、サンタとトナカイがちょこんっと座っている。あまりにも愛らしいその姿に、思わず顔が綻んだ。


「わあ!ありがとうございます!」
「ハル様、入居者の皆様からお話は伺えましたでしょうか」
「あ、はい。皆さん、とても親切にしてくださって……」
「それは何よりです」
「……でも、やっぱりわからないんです」

 彼が俯く。



「本当にこれでいいのかなって」



 ざわつく会場の中で、ここだけに静寂が漂っていた。
そばでメイク教室を開いていた三人も一斉にこちらを振り向く。


 「あっ!みなさんのことではなくてですね?俺が……俺自身が、この選択をしてもいいのかと……」

「……ふむ」


 深海さんは口元に手を添えて何か考え込む素振りを見せた。

そして空になったトレイを端にあったテーブルに置き、椅子を一脚持ってきて私たちのテーブルの近くに座ると、



「それでは、ひとつ私の昔話をお聞きいただけますか」


と、言った。


彼女の伏せた睫毛の上で、電飾の暖かい光がチラチラと躍っている。
いつの間にか、会場のBGMは賛美歌に変わっていた。


(続)



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透明の家(第一話 前編)
透明の家(第一話 後編)
透明の家(第二話)
透明の家(第三話 前編)
透明の家(第三話 後編)
透明の家(第四話 前編)
透明の家(第五話 前編)
透明の家(第五話 後編)
透明の家(第六話 前編)
透明の家(第六話 後編)
透明の家(第七話 前編)


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