【短編小説】星間なき医師団
オレンジ短編小説新人賞にて”もう一歩の作品”に選出していただいた作品です。もう一歩は何が足りなかったのでしょうか。私の勇気でしょうか、それとも社会との距離でしょうか。
「あなたの手で命を救ってください」
その言葉と、街頭で手渡されたチラシに心を奪われた。
存在は知っていたけれど興味はなくて、でも実際に貧困や飢餓、紛争みたいな文字を見ると、今も地球のどこかで苦しんでいる人の姿がありありと脳裏に浮かぶ。
ご丁寧に、マラリアで息も絶え絶えになっている浅黒い肌の少年の顔まで印刷されているA4の光沢紙を折りたたみ、彼女が待つ家に帰宅した。
「なんで?」
彼女の第一声はそれだった。
国境なき医師団に加入したいと告げた後の第一声が「なんで?」だなんて。
僕が言いたい。「なんで?」と。
それからも僕らは小一時間ほど話し合った。
「今も苦しんでいる子がいるんだ」と説明すれば「どうしてあなたが行かなきゃいけないの?」。
「僕は世界平和を目指したい」と言えば「あなたにとっての世界はどこを指しているの?」。
「医師は命を救うのが仕事だ」と吠えれば「今救っている命だけじゃ足りないの?」。
街灯でチラシを配っていたお兄さん達は募金を呼び掛けるつもりだったんだろう。まさか自分の配ったチラシが火種になって、どこかのマンションの一室でこんな会話が繰り広げられるとは夢にも思っていないだろう。
そして、一時間も経てば話が逸れていくのは痴話喧嘩の宿命だった。このままいくと彼女の箸の持ち方だとか僕の寝起きの機嫌の悪さだとか、そういう話題に火が着きそうな予感がしたので、今日のところは結論を出さずにまた明日落ち着いて話すことにした。
火照った頭を冷ましたい。少し散歩してくるよ、と僕は玄関のドアノブに手をかけた。
「それがいいね。ゆっくり考えておいで」と彼女が言う。
——考えるのは君のほうだ、とは言わなかった。
秋晴れの空に夕陽が茜色を灯していた。
からりと澄んだ空気の中をトンボが泳いでいる。郷愁を誘う涼風に身を任せてふらふらと歩いていると、近くの河川敷にたどり着いた。
緑と茶色が入り混じる土手の芝生へ寝そべり、ぼうっと空を見上げた。細く伸びた秋特有の雲が落書きみたいに空に浮かんでいる。
”あんな風に自由になれたら”なんてらしくない空想も捗り、あれやこれやと思い浮かべる。そして気づけばまた彼女のことを考えていた。
医大生の頃から付き合っている彼女とは研修医として働き始めた今年の春から同棲を始めたばかりで、喧嘩は一度もなく、円満だった。
結婚を見据えていたから給与をやり繰りして貯金をしたり、土日にはレンタカーでドライブをしたりと慎ましく生活していた。彼女も、僕との未来を信じてくれていた。
その矢先の出来事がこれだ。
多少冷静になった今の頭で考えてみれば、たった一枚のチラシを手に鼻息荒く帰ってきた新米医師が開口一番「海外で人道支援をしたい」と言い放ったのだから、取り乱さず冷静に応じてくれただけでも感謝すべきなのかもしれない。
でも僕にとっては、結婚生活や今の病院でのキャリアよりも魅力的な選択肢だった。
医師が嫌いなわけじゃない。彼女が嫌いなわけじゃない。むしろどっちも大切なのに。
僕は、どうしてあのチラシに心を奪われてしまったのだろう。
そう自問していたときだった。
「――やあ」
突然、耳元に声が聞こえ、飛び起きた。
辺りには誰もいない。
疲れているんだ、ともう一度横になる。
「分かるかい? ここだよ」
まただ。でも先ほどよりもクリアに聞き取れた。
男のような女のような、不思議な声。
やはり人影はどこにもなかったけれど、僕が寝転んでいる芝生の近くに、一匹のトンボが翅を休めているのが見えた。
飛び退って距離を取る。
「やっと気づいてくれた! おっと、怖がらなくていい。大丈夫さ」
そう言われても。
気でも違ったかと自分を疑う。
「僕は君に何もしない、本当さ」
そう言ってトンボは手の代わりに翅を広げる。こんなにコミカルな動きをする昆虫に出会ったのは初めてだ。
どう考えても不気味すぎるはずだった。ところがこのトンボ、やけに安心感のある声で、本当に敵意はなさそうだと感じてしまう。
とはいえ初めて会ったから確証はない。勝手にそう感じているだけかもしれないし。
まずは確認から、と意を決して声をかけてみることにした。
「トンボ――が、喋ってるのか?」
「トンボ? あぁ、この地球のことか」ふふ、と彼は笑う。「君たちは几帳面だね」
「地球? 何を言ってるんだ?」
「わざわざ個体に名前を付けているんだろう? ということは、君にも名前が?」
「……シュウ、です」
日本人の気質なのか、名乗る際には必ず敬語になってしまう。たとえ相手がトンボでも。
彼は陽気に笑った。
「いい名前だ、シュウ」親愛を示すように翅を広げた。「僕はここから遠く離れた星からやってきたんだ。名前はないけど、そうだな……」
トンボは少し考え込む様子を見せたかと思えば、すぐに諦めて投げやりに言う。
「あー、そのままトンボと呼んでくれ。響きがいいし」
心の底から名前に興味がないのか、本当にトンボという名前を気に入ったのか。とにかく目の前のコミカルなトンボはトンボと呼んでいいらしい。
喋るトンボ。全く訳が分からないままだったけれど、正直、生まれて初めての超常現象に舞い上がっている自分が居た。
人生の転機に現れた不思議なトンボ。自称、地球外生命体。
いくつになっても男の子はこういうものに弱い。
夢でもいい、夢ならいい。存分に乗ってやろう。
「遠く離れた星っていったいどこだい?」
「遠い、遠いところさシュウ。それこそ地球の文明じゃまだまだ見つけられないくらいに」
「そんなところから、トンボは何のために地球へ?」
トンボは翅を勢いよく羽ばたかせ「よくぞ聞いてくれた!」と僕の眼前へ飛んでくる。
虹色に光るトンボの大きな目玉が、僕ごとこの星を呑み込む想像が脳裏をよぎる。
いったいこの虹色の奥にはこの世界がどのように映っているのか、気になった。
「僕は未開の星を支援するためにやってきたんだ。地球でいうところの医者に近いな。科学者でもあるけど……」
トンボはまた逡巡する素振りを見せるも、すぐにパッと顔を上げた。
「そうだな、君たちの言葉を借りて”星間なき医師団”とでも名乗ろうか」
小さく心臓が跳ねる。
目を見開いて、目の前のトンボを見た。
そんなことって。だって、いや、さっき僕が手にしたチラシとも、彼女と話し合った内容ともドンピシャだなんて。
遠い宇宙の果てからやってきた地球外生命体が、今日の僕と同じことを考えて、星の間を駆けてやってきた。
こんな偶然、必然と言わずして何と言うべきか!
僕はすっかり茜色の空に飛翔して、この街を、ひいては地球を俯瞰している気持ちになっていた。
今日の選択もこの出会いも、全て運命だと信じるのに時間はかからなかった。
鼻息の荒さもそのままに、僕はトンボににじり寄る。
「トンボ、僕も君と同じことを考えていたんだ。今日、ほんのついさっき君が話しかけてくるまで、ずっと」
へぇ、とトンボが感嘆した声を漏らす。
「まぁ僕は星をまたぎはしないけど……そう、海を渡るんだ。遠くの国に行くために」
虹色の大きな目を反射する七色が、柔らかな光となって僕の網膜へ届く。
幼い頃、父に夢を語ったことを思い出した。父は何も言わず目を細めて「お前の人生はお前の意思で決めるんだ」と僕の背中を押してくれたっけ。
——まさか一匹のトンボと父を重ねる日が来るとは。
「なぁシュウ、どうして君は海を渡って遠くの国へ?」
トンボの優しそうな瞳が僕を捉えて離さない。
応えるように僕もトンボの目を見て言う。
「決まっているさ」眉根を上げて言う。「君と同じだ。そこに困っている人がいるからだよ」
なるほど、と一息置き、トンボは黙り込む。
自信満々に言い切ったものの、途端に不安がどっと押し寄せてくる。見た目はトンボでも、このトンボは遥かに高度な文明を持つ生命体。こんな物言いは失礼に当たるかもしれない。
不意に空いてしまった間を取りなそうと必死に言葉を探していると、トンボがおもむろに口を開く。
「それは素晴らしいことだね、シュウ」
「え?」
「本当に素敵なことさ。君は優しく、誇り高い存在だ。自信を持つんだ」
「トンボ……」静かに胸を撫でおろした。
「ここで君と僕が出会ったことには、何か見えない理由があるような気がしてならない。……例えば、そう、運命とかさ」
鼓動が高鳴る。
――トンボの話がもっと聞きたい。そう思った
それはトンボが地球外生命体だからじゃない。
きっと僕が唯一出会えた理解者だからだ。
となると、僕も彼を理解したい。いや、しなくちゃならない。彼の暮らす星について尋ねることはほとんど義務のように感じられた。
「トンボの星は地球より優れた文明を持っているんだよね?」
「説明が難しいけど……まず僕らは肉体を持っていない。地球でいうところの精神や思考だけが存在していて、最近になってようやく他の物体に精神を宿らせる技術が実現したんだ。僕の手柄さ」
「それはすごい」感心して頷く。「だから今、そのトンボを介してここにいるってこと?」
「そう。そして僕らはシュウみたいに名前を持たないし、付けないんだ。いつ生まれたかは覚えてないけど、そもそも生まれた星と自分を区別しないから」
「言われてみれば納得できるけど、あんまり共感しがたい話だね」
「そうは言うけど、実は君だって同じさ」トンボは笑い、諭すように言う。「シュウはシュウだが、地球でもあるだろう?」
「そんな感覚を持ったことすらなかったよ」
「なるほど、むしろ興味深い」今度はトンボが感心したように頷く。「ところでシュウはどうして人を助けたいって思ったんだ?」
「簡単な理由だよ、トンボ。今まさに死の淵を彷徨っている人がいるのなら、医療や支援で助けたい。生かせる命を生かしたいってだけさ」
単純明快。彼女に何度伝えても納得されなかったこの一言は、きっとトンボになら通じるだろう。確かに、効率だとか合理だとか、そういう思考に支配されてしまった人には理解されない考え方かもしれない。
同僚に話せば「なに青いこと言ってんだ」と鼻で笑われるのが目に見えている。
それでも、トンボなら。
なにしろ星をまたいでここまでやってくるほどの筋金入りの医師だ。僕が言うまでもなく、トンボの中に根付いている価値観だろう。
またもやトンボが黙り込む。共感すると黙ってしまうのは、きっと彼の癖だ。すでに彼のことを分かり始めていた僕は、不安になったりしなかった。
――だから、余計に怖くなったのかもしれない。これから目にする彼の姿の異様さが。
いつまで経っても、トンボの肯定的な言葉は聞こえてこない。
トンボは何も言わず、その代わりにゆっくりと首を傾げていく。見慣れた角度で止まらない。
可動域をゆうに超えているのに首を傾げ続けて、草が擦れるような小さな音がやけに耳にこびりつく。後になって思えば、あれは首の筋が切れる音だった。
生物として、あまりに異様な姿で、それでも平然とトンボはそこにいた。
縦に並んだトンボの瞳は、変わらずに僕を捉え続けている。
けれど、もうその目に七色の光は映らない。深すぎる宇宙の闇を収束したような真っ黒い二つの目が、黙って、僕を見ていた。
「分からないな……生かすことは支援になるのか?」
「そ、そりゃそうさ」祈るように声を絞り出す。「トンボもそう思ってここへ来たんだろう?」
願いもむなしく、トンボは翅を上に伸ばして頭上でピタリとくっつけ、「いいや」と言った。
脳内に警鐘が響く。心臓がうるさい。つめたい汗が背中を滑り落ちていく。
それは自然界では見たことがない、異様なトンボの姿。
どこか冷たさが増したように聞こえる声音。
意図の読めない、やけにフレンドリーな地球外生命体。
そのすべてが、さっきとは一転して僕の身体を強張らせる。
確かにあったはずの朗らかな気持ちも、彼へのシンパシーも、もうどこにもなかった。
「シュウ、いや地球。君はまだ若い。だから成長するために新陳代謝を繰り返さなくちゃならない。何度も、何度もだ」
分かるかい? とトンボが言う。
僕は何も返せず、曖昧に頷いた。
「それが君たちの言う生と死。でもそれは、他でもない地球が選んだ道だ。……君はその新陳代謝を止めようって、そう言うのかい?」
否定するのも憚られるようなプレッシャーを感じながら、必死に声を絞り出す。
「そういうわけじゃない。ただ、苦しんでいる人を見捨てられないだけで――」
「違うな。本心はそこじゃない」
ぴしゃりと言い放つ。そのまま、わしゃわしゃとトンボの口が動くのが見えた。
何気ないその動きが、なぜか強烈な吐き気を催す。
「シュウ、君は自分が思っているほど善人じゃない。それは君が一番よく分かっているはずだ」
「そんなことは……」
「ないと言いたいのなら、どうして苦しんでいる人を見捨てられないのか考えてみればいい」
どうして。そんなの、当たり前のことだ。深く考えるまでもない。
これまでは、そうオチをつけてきた。それに違和感があるのも事実だった。何度考えても、思考はいつもそこで止まった。
別に困ることもないからそのままにしていた扉を開いて、さらに奥の答えを探る。
苦しんでいる人を見捨てられないのは。
「苦しんでいる人を見るのが……嫌だ。自分だけがのうのうと生きている感覚も苦しい」
トンボはニヤリと笑った。ように見えた。
「傲慢だなぁ。それは君のエゴでしかないって、気づいているのかい?」
「それは……」
本当のところは、どうなのだろう。
今日、僕が彼女に言った言葉が蘇る。
僕は説得をして、彼女は質問をしてくれた。
僕は物事や概念を語り、彼女は動機や理由を大切にしていた。
彼女はずっと、僕が自分のエゴだと認めることを待っていたのかもしれない。説得や説明じゃなく、僕が僕のために吐くわがままを。
膝から崩れ落ちそうな錯覚に襲われる。身体から力が抜け落ちていく。
そんな僕を見かねたようにトンボが口を開いた。
「シュウ、別に責めているわけじゃないんだ。むしろ逆だよ」
「……逆?」
「生まれたからにはエゴをぶちまけながら生きるべきだって言いたいのさ。小難しいことを考えなくたって、勝手に新陳代謝は巡る。生命たちが好き勝手にやっていれば良い星になる。そうなるように作られてるのさ」
翅を広げ、首を振り、トンボは独り言ちる。
どこかアメリカナイズされたジェスチャーに、緊張が緩んでいくのを感じた。同時に、一つの疑問が浮かぶ。
「それじゃあ、トンボはどうしてここに?」
勝手に新陳代謝が巡り、良い星になるのなら、彼がここにいる理由はないはずだ。
トンボはあっけらかんと言い放つ。
「簡単さ、僕は僕のエゴに沿ってここへ来た」
「エゴ? どういうこと?」
「たとえ地球のためにならなくても、未開の星で苦しんでいる生き物たちを救ってあげたいって、ただそれだけだよ」
「――救うって、具体的には?」
「あぁ、シュウ。よくぞ聞いてくれた!」
嬉しそうに翅をはためかせると、彼は意気揚々と喋り始めた。
「僕らには死という概念がない。地球はまだ若いから、君もいつかは死んでしまって、せっかく出会えた大切な人ともお別れしなくちゃならないんだろう。そんなのあまりにも可哀想じゃないか」
「可哀想……」
「そうだよ。生物として未熟だから別れがある。引き裂かれる。なにより、それを悲しいと思ってしまう。だから君たちを不老不死にして、死という概念から解き放ってあげるんだ」
彼は何も間違ったことを言っていないと思う。
それなのに、心のどこかが強く否定したがっている。
でも、別に死にたいわけじゃない。不老不死も魅力的な選択肢だ。
「シュウ、僕の言っている意味が分かるかい?」
トンボは出会ってから一度も主張を変えていない。
それなのに、鼓動の高鳴りは静まり返って、もう僕の心は弾んでいない。
その理由はいったいどこにあるのか、考える。
「聞こえているかい?」
トンボの言葉を聞くたびに、苛立ちが募っていく。
そうだ。僕は苛立っている。
だって、どこの誰かも知らない遠くの宇宙人に勝手に首を突っ込まれて、今の自分を可哀想だなんて言われる筋合いはどこにもない。
星間なき医師団? 笑わせるな。
怒りのためか、いつでもトンボを殴り潰すためか、あるいはその両方かは分からないけど、気づけば僕のこぶしは固く握られていた。
「トンボ、君には感謝するよ」
「どうしたんだい、突然」
「君のおかげで自分の傲慢さに気付けたし、何より本当に大切なものを見失わずに済んだ」
「あぁ、それは良かった。来た甲斐があったよ」
トンボは翅をぺしゃりと地面に降ろし、落ち着いた様子で続けた。
「それで、僕はこの星を支援したいんだけど、どうすればいいかな? 現地の協力者が必要なんだ」
「そのことなんだけど、悪い。今すぐ帰ってくれ」
かぁ、と鳴くカラスの声がやけに大きく響き、声の主である黒い影が頭上を飛んでいった。トンボは何も言わない。
ずいぶん遠い空の向こうに夕陽が沈んでいくのを眺めていると、ようやくトンボが返事を寄越す。
「えっと、シュウ? それはどうして?」
初めて聞く狼狽えた声。僕はこぶしを握ったままそれに答える。
「助けたいって気持ちはありがたいよ。でも、君のエゴを押し付けられて嬉しいかってのは別の話だよ。僕らには僕らの、地球なりのやり方があるんだ」
「……そうは言うけど、シュウだって逆らおうとしてたじゃないか、星の定めに」
「逆らうさ。でもそれは僕が僕に逆らってるだけだろ」
星と自分を区別しない。そうトンボは言っていた。
「トンボの言葉を借りれば、僕が逆らったところで地球が地球に逆らってるだけだ。何も問題はない」
「それは愚かだよシュウ。若さ——というより稚拙だ」冷笑して言う。「冷静に考えるべきだよ」
「いいや、むしろ君のおかげで冷静になれたんだ。わざわざ遠くの苦難に目を向けるなんて馬鹿げてた。目の前の世界から逃げるために他人を可哀想だと決めつけていたんだ。僕は」
「……」
「僕はもう逃げるのをやめようと思う。僕の目の前の世界を大切にして、自分の生を全うして、ちゃんと死ぬ。これは地球の総意と取ってくれて構わないよ」
「……死んだら、もう大切な人には会えなくなるのに?」
「充分ですってくらい会えばいい」
「死んだら食べたいものは食べられないよ?」
「たらふく食べるさ、死ぬほどに」
「生まれ変われるかも分からないよ?」
「もう生きたくないと思うまで生きればいいじゃないか」
トンボは分かりやすく落胆していた。
ため息交じりに「これだから低レベルな文明は」と吐き捨て、すでに興味を失くした僕には目も合わせようとしなかった。
「それじゃ、僕は行くよ」背を向けたままトンボは言う。「実は他にも地球みたいな星があって、そこも新陳代謝を繰り返していてね。可哀想だから助けに行くんだ。さようなら、地球の友人」
「――さようなら、トンボ。会えてよかった」
「あぁ」
藍色が薄くにじんだ西の空に向かって、トンボは飛び立つ。こうして見ると、彼が別の星の生命体だなんて分かりっこない。どこからどう見ても普通のトンボだ。
そして、そう見えるのは、僕だけじゃないらしかった。
飛び立った瞬間、大きな黒い影が僕の眼前を覆う。それがカラスだと気付いたのは、完全にトンボが食べられている最中のことだった。たった数秒の間に、四枚あった翅は毟られてもう一枚になり、体の真ん中から下はクチバシの中に埋もれて見えない。
トンボの真っ黒な瞳が僕を捉えた。
「た、助け——」
直後、トンボの体は二つに裂かれる。カラスは無感情にそれをついばむ。
カラスを見ても、トンボの死体を見ても、もう何とも思わなくなっていた。
それでもトンボの体が完全になくなるまで、僕はなぜかその場を離れずにいた。
ようやく食事を終えたカラスが飛び立ってから、少し遅れて意識を取り戻す。
「ぜんぶ夢だったって言われても……今ならすんなり信じちゃいそうだ」
でも、鮮明に残った記憶がそれを許さなかった。
僕は確かに喋るトンボと出会ったし、星を超えてやってきた彼に共感した。そして最後に思い知った。
目の前に広がる現実に辟易する朝。自分が生きていることを申し訳なく思う夜。幸せを享受することを躊躇うくせに、不幸を避けようとする臆病さ。それらを言い訳に生きてきた抜け殻みたいな自分を埋めるためのハリボテの道徳心と、その裏にある狡猾さ。
――僕はただ、逃げていただけだった。
河川敷はすっかり宵闇に包まれ、鈴虫やコオロギの鳴き声が月光に照らされた頬を撫でた。
どっと疲れが込み上げる。気怠さを誤魔化すように肩を回すと、子気味よい音が骨伝いに響いた。
そのとき、不意にスマホが震える。物凄い速度で一気に現実へ引き戻され、思い出す。そういえば僕は今日、彼女と喧嘩をしたその足でここに来たんだった。ロック画面に浮かび上がるのは彼女からのメッセージだった。
『ご飯できてるよ!』
手のひらの中のディスプレイに映る、たった七文字の言葉。無機質なデータの塊でしかないはずなのに、その七文字が全てを打ち砕く音が聞こえた。
文明なんて、善悪なんて関係ない。宇宙も、地球も、来世も、もうどうでもいい。
『りょうかい』
手早く済ませたフリック入力の勢いを借りて、力任せに地面を蹴り出す。冬の気配を感じさせる秋風が物悲しくて、一刻も早く彼女に会いたくて、家路を駆けた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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これからも短編を掲載していくので、ぜひお楽しみください。
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