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象外の象

現象には、まだ現れていないものがある。
それを現す事を"象外の象"と呼ぶ。

詩、書、絵、武、農、漁、食、易。

縁ないし機を"使う"事ができる。

"道有り、藝有り"

これを達人と呼ぶ。

"東坡易傳"を要約すれば上記に尽きる。

心は無、それを行う身体も無心でなければならない。
運命と一つとなり、使う意図なく摂理を使うのである。

嫌な予感、というのは無心に生じる。
それを意図なき身体が現す。

波木星龍は少年の頃、家族で引っ越した新居に嫌な予感がした。
彼は必死で、この家は良くないと家族に伝えたが相手にされなかった。

何故良くないのか、根拠を説明する事は不可能だった。

この家で、悲しい事故は起きた。

彼は最愛の母親を失う事になった。

それは彼を、その道の追求に導き、その能力で生きる運命に導いた。

誰もが摂理に生きているが、使う事ができない。
否、使っていても気づけない。

それは無時間的な而今に集約された、認識以前の働きとして現れる。
何かのきっかけや兆しと同時に、その把捉と行為の一致として現れる。

どうやったのか知らない。

ただ、摂理の働きであり、無礙で、止める事はできない。

だが、その縁ないし機を"使う"事ができる。
この身の自然な機能だけである時、自由自在に。

認識意図を用いず、状況即応する自然の摂理がある。

ここに "象外の象" を自在に現した、蘇東坡居士の境地が見て取れる。

より東洋的、共時的、絶対的で有機的な、それでいて決定的な摂理の把捉、
運命とは生きた摂理であり、その形象を端的に捉えるのが達人というもの。

この、易と仏法を極めた北宋の苦労人に学ぶ事ができるか。

それが体認できれば、運命学は学問的標本から生きた事実に変わるだろう。

また、蘇東坡の絵書論と言えば、すぐに "老荘" といわれるが、
老荘のみで解決が不可能である事、宇佐美文理博士が指摘する通りである。

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