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ご丁寧にタイトルをフェイクにしたのに、今までで一番レベルの勢いで高速にスキがついた昨日の記事は、自分の発言力の大きさを実感することとなった。note内だけでなく、TwitterのRTやいいねもすごく、Instagramの反響も大きかった。

基軸を見失い大切な何かを忘れてしまわないことに、私は重きを置いている。

その中の一つが昨日書いた話だ。

あれは、私に発言力が備わったからやったことだ。私だからやったんだ。減点されてもいいから、伝えたかったんだ。

あの記事に共感して、真似して書くことはやらないほうがいい。きっとあなたが不利になる。そっとDMで感想をくれたとしても、私は絶対に誰から来たなどの告げ口もしないから、どうしても何か言いたければぶつけてくれてもいい。

頑張っている人を尊重する。だけど、お金の大切さも改めて考えて欲しいと私は思う。

私もお金をかけた部分はある。ガイドブックやチケットも少ないが0ではなかった。しかしこれ以上は、必要だと思わないので買わなかったし呼びかけなかった。

私が一文無しになった話を興味があれば一度読んで欲しい。

数年かけて底へ底へ底へ、古井戸のようなところへ私は落ちていった。もうこれ以上底はないだろうと思ったのに、まだあったようだった。

暗闇の底の中では、じめじめと、べとべとと、そんなものがはびこっていて、泣き声は冷たい壁に反響した。誰にも聞こえない、ヘドロのような異臭のする中にいる私だった。

でも、この場所には下はもうないから、見上げることにした。
見上げる先には、光があった。

まだまだ遠いけどうっすらと見えているあれはきっと「希望」なのかもしれない。不安だけど、起き上がって、立ち上がって、めいっぱいに背伸びをして覗いてみた。

私の大切なひとたちが、心配そうにのぞき込んでいた。私を助けようとしてくれる人たちが、私に手を差し伸べてくれていた。

私の涙は、壁に反響して聞こえなかったわけじゃなかった、らせん状のようにぐるぐると古井戸を回り、地上にまで届いていたのだ。

私はひとりだと、こんな自分いなくなってしまえばいいと、泣きわめいていたその声はちゃんと温かなところに届いていて、私を救おうと色々な人が力を貸してくれた。

本当にありがとうと何度言っても足りないくらいなのに、皆揃って「葵さんがいつも、癒してくれるから」「いつも助けてくれるから」「絵が大好きだから」と、私への感謝を込めて、力を貸してくれたというのだ。

私にはそんな力があるのかもわからないけれど、わからないけれどそれを否定してしまうとその人たちが言っていることを否定することになってしまう。

だから素直に受け取って、素直に、自分にできていたことを小さく褒めた。

薄黒い霧が晴れていくー無一文になった情けない私が救われ、心からの感謝を覚えた日。

私にはこんな経験がある。経験があるからこそ感謝がある。そして、お金の大事さ、自分のも、人のものも。こんなことは誰もが出来る経験じゃないし出来るならそりゃしないほうが絶対にいい。

渦中はどんだけ不幸だよと絶望にくれていた。可哀想すぎて涙が出ると友達に言われるほど不運の連続だった。

それでも今思い返すと残ったものは「何が大切か」と「感謝の心」だ。

昨日のnoteを書いた後、頭に血がのぼるような感覚があり声を出して泣いた。我慢の限界が既にきていて、それでも人に伝えたかったから、大きな声で、子供のように。

そうしたら私のそばにいる人が背中をさすり、落ち着いて、と優しい声で言った。その人は不思議な人でうちの神棚にいる神様の声が聞こえる。本当に不思議な人だから、あまり言うと変に思われるけど、この人を通じてたまに会話をするようになった。

私は泣きながらこう聞いた「神様はなんて言ってる、私は間違っているのか」と。

「間違っていない、それでいい。怒っていい。と言っている」

その言葉に安心して、少し眠った。
起きたら多くの反響があり、驚いたがそれもそうだなと納得した。

去年、私は影響力が欲しいと願った。まだまだではあるが、それでも確実に去年よりは見られる人数は増えたことだろう。

全てのフォロワーを合わせると約8.8万人になる私は今このネット社会で、発言次第で印象操作すら可能だ。だからこそ、発言に気を付ける、フラットな視点でものをみる、誰かを批判しない、攻撃しない。そんな自分で在りたいと思っている。

ただ自分の感じる心の声だけは、書き続けていく。
伝えるべき人に伝えたいことを伝えて癒す。

それが、今の私なんだ。

山口葵

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