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恋愛エッセイ『過ぎ去ったいくつもの夜』

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このマガジンでは過去の恋愛について書いたものをまとめました。いくつもの夜が過ぎて、あなたに幸せが訪れますように。
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記事一覧

「かわいーね」

「かわいーね」

 高校をやめたあとの数年間の話は、恋人にもほとんどしたことがない。

 小学校からの一貫校だった高校は、あたしにとって箱庭のようなもので、そこを飛び出してみたところで居場所はどこにもないようだった。

 そのころ、あたしにほとほと手を焼いていたらしい両親は、名ばかりの通信制高校にあたしをいれた。その通信制の「高校」は、まったくもって高校と呼べる場所ではなかった。
 古いビルのなかにあって、高校をド

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レット・イット・ビー

レット・イット・ビー

 おそろしく久しぶりにビートルズを聴いている。なんというか、とんでもなくオールデイズなメロディーだ。
 実際、ビートルズはたいていの人にとって、すでに過去の一部なのだろうと思うけれど。

 ビートルズのノルウェイの森が流れはじめる。それが悪くなかったから、音楽をとめるタイミングを失い、あたしのイヤホンは次にイエスタデイを流しはじめる。その次には、レット・イット・ビーを。

 レット・イット・ビーは

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あたしを所有しないでね

あたしを所有しないでね

「養ってあげる」と、ある人から言われたことがある。
 その人が冗談とも本気ともつかない表情だったので、あたしは束の間困惑した。
 そう言った彼は、恋人ではない。かと言って友達でもないので、あたしたちはやや複雑な関係性なのだ。

 彼とは、共通の知人を通して知り合った。素晴らしく頭の切れる男性で、仕事仲間の間でも実力者としてよく知られている。
 そんな彼はどういうわけかあたしを気に入ってくれていて、

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そばにいるのに、いない人

そばにいるのに、いない人

 あたしは安らいで、恋人の体にもたれる。恋人の体は頑丈で大きく、あたしがもたれかかったところで、びくともしない。彼はTVから目を離さずに器用に缶ビールを持ち替えて、片手であたしの体をなでる。額やら、胸やら、唇やら、顎やら。あたしは目を閉じて恋人の体温と匂いを感じながら、あたしたちが今ともに生きていることを確信する。

 ともにいる時間を幸福に感じることが、そもそも幸福なのだ、とあたしは知っている。

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一年のおわりに貴方は誰と過ごしますか

一年のおわりに貴方は誰と過ごしますか

 別れて数年経つ昔の恋人を思い出すことは、もうほとんどない。それなのにふと思い出すのは、きっともうすぐ一年が終わるからだ。
 当時、あたしと彼は一年の終わりを一緒に過ごすのが常だったのだ。

 彼はあたしよりも3歳年上だったけれど、どこか少年のような人だった。苦手な食べ物がたくさんあって、カラオケと体を動かすことが大好きで、人に批判されるといつもムキになって反論するような人だ。
 あたしの価値観や

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ただの偶然であって運命ではなかった話

ただの偶然であって運命ではなかった話

 それを見つけた時、「あ」と声が出た。

 もうずいぶん前の話だ。あたしがまだ今のパートナーと出会っていなかった頃の話。あたしはその頃、肌が浅黒い背の高い男の子と恋をしていた。

 それは彼の部屋の本棚の中にあった。サキというイギリス人の作家の短編集だった。サキという作家がどれぐらい人に知られているのか、不勉強なあたしには検討がつかないけれど、どこでも見かけるような本でないことは確かだった。

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ありふれた秘密

ありふれた秘密

 誓って言うが、恋に落ちたわけじゃない。あたしには愛するパートナーがいるし、彼以上に大切なものはこの世に存在しない。それなのに気が付けばあたしは、ある一人の男と少しばかりややこしい関係性になっている。

 その人はあたしよりもいくらか年上で、お洒落ではないけれど身綺麗にしている。細いフレームの眼鏡がよく似合っていて、親切で、すばらしく頭がいい人だ。
 あたしとその人——その人のことをここでは先生と

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