見出し画像

あたしを所有しないでね

「養ってあげる」と、ある人から言われたことがある。
 その人が冗談とも本気ともつかない表情だったので、あたしは束の間困惑した。
 そう言った彼は、恋人ではない。かと言って友達でもないので、あたしたちはやや複雑な関係性なのだ。

 彼とは、共通の知人を通して知り合った。素晴らしく頭の切れる男性で、仕事仲間の間でも実力者としてよく知られている。
 そんな彼はどういうわけかあたしを気に入ってくれていて、たびたび好意をほのめかす。あたしは恋人の存在を説明して断交を宣言したが、彼はどこ吹く風で「いいのいいの」と、まるで衛星のように遠からず近からずの距離感を維持している。

 まだ関係がこじれていない頃、あたしは彼が住む町で仕事をしていたことがある。その町はとにかく住みやすい町で、あたしはいたく気に入っていた。そのことについて彼と話をしていた時のことだ。

「そんなに気に入っているなら、住めばいい。一緒に住もう」
彼が突拍子もないことを言うのはいつものことなので、あたしはさして気にしない。
「たしかに、支社があるのよね」その町には、関西以西で最大の支社がある。あたしの会社では、転勤もめずらしくない。

「仕事をしたい?」
そう尋ねられ、あたしは彼の意図を図りかねて言葉につまった。彼はサラリと言ってのけたのだ。
「養ってあげるよ」

「だめにきまってるでしょ」
あたしは即座に拒否した。ややあって、冗談だろうと思い至って「あたしはお金がかかるんだからね」と付け足した。
 話はそこで途切れ、それ以上何を話したのか覚えていない。

 彼の戯言を一瞬、ありがたい話のように思ってしまった自分をあたしは叱咤した。
 そもそもあたしには最愛の恋人がいて、彼以外の男と一緒になる気なんて微塵もない。

 彼に悪気がないことは百も承知だが、養うなんて、ひどい言葉だと思った。あたしの人生をよく知りもしないのに、全て引き受けることができると思っているなら大間違いだ。
 それにあたしはもう子どもではないし、自立して生きる覚悟をもっている。それなのに、そんなものはじめから存在しないみたいに揶揄うなんて、冗談が過ぎる。

 あたしは誰かの世話になったとしても、誰にも所有されない。絶対に、だ。
 心の中でそう誓い、あたしは夜の地下鉄のホームを靴音を響かせて歩いた。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?