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ただの偶然であって運命ではなかった話

 それを見つけた時、「あ」と声が出た。

 もうずいぶん前の話だ。あたしがまだ今のパートナーと出会っていなかった頃の話。あたしはその頃、肌が浅黒い背の高い男の子と恋をしていた。

 それは彼の部屋の本棚の中にあった。サキというイギリス人の作家の短編集だった。サキという作家がどれぐらい人に知られているのか、不勉強なあたしには検討がつかないけれど、どこでも見かけるような本でないことは確かだった。

「サキ、読むんだ」
あたしは思わず彼を振り返った。
彼の部屋の中、狭い布団の中で。ああ、彼は頷いた。「買ったその日に雨に降られちゃって、表紙がひしゃげてしまったけど」たしかに薄紫のその本の表紙は不恰好に波打っていた。
「なんで買ったの、この本」
あたしはなおも追及した。
「好きなの?この作家が」「そういうわけじゃないけど、なんとなく」
彼は怪訝そうだった。
「なんでそんなこと聞くの?」

 あたしはその短編集を取り上げて、ページを繰った。このサキの短編集には、「セルノグラツの狼」という没落した貴族の話が収録されている。それは、あたしのお気に入りの物語だった。

「あたしも待ってるの、この本。あなたもこの本を持ってるなんて不思議だな、運命みたい」彼は笑って、あたしを後ろから抱きしめた。
「運命みたい?」
「そう、運命みたい」

 部屋に差し込む日差しは金色で、あたしはその時の光景を忘れないだろうと強く思った。
 運命のように同じ本を本棚に所有するこの男の子と、ずっと一緒に生きていくような気がしていた。

 しかしそれは錯覚だった。その背の高い男の子とは、のちにひどい喧嘩をして二度と会わなかった。サキの短編集は、もうあたしの本棚にない。「セルノグラツの狼」の主人公の名前すら、あたしは忘れてしまった。あの日の部屋でみた、金色の光に包まれた光景すらもう曖昧にしか思い出せない。

 運命ではなかったのだ。ただの偶然で重なった一瞬が永遠に見えただけの話だった。

 今のパートナーとは、本の好みも音楽の好みも違う。ピアノの音楽を好むあたしのそばで、パートナーはやけにオールデイズなロックミュージックを聴いている。
 あたしはそのことに、失望しない。違っていて当たり前なのだ。単なる偶然を運命に取り違えるような真似は、もうしない。

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