見出し画像

ありふれた秘密

 誓って言うが、恋に落ちたわけじゃない。あたしには愛するパートナーがいるし、彼以上に大切なものはこの世に存在しない。それなのに気が付けばあたしは、ある一人の男と少しばかりややこしい関係性になっている。

 その人はあたしよりもいくらか年上で、お洒落ではないけれど身綺麗にしている。細いフレームの眼鏡がよく似合っていて、親切で、すばらしく頭がいい人だ。
 あたしとその人——その人のことをここでは先生と呼ぼう。いかにも先生のようないでたちの男の人だから――は共通の知り合いを通して知り合った。とても優秀な人なのだと、共通の知人は先生をあたしに紹介した。海外のことにも国内のことにも精通しているから、何でも尋ねたらいい、と。

 正直に言うと、あたしと先生とはほとんど共通点もなかったのだが、紹介された手前、会食でもしなければならない。仕方がないので、お互いの仕事内容や身の上話をした。
 先生は幼少期を海外で過ごしたという。そのため母語は日本語ではないが、日本の大学を卒業したのちに就職したので、今では日本語を一番よく使っていると言って笑った。
 彼は思っていたよりもずっとおおらかな人柄で、あたしは随分とリラックスしていた。「恋人はいますか」と聞かれたので冗談のつもりで「本当のことを言った方がいいですか?」といたずらっぽく答えた。彼は真面目な表情で「はい」と返した後ににやっぱり、と言い淀んだ。「やっぱり聞きたくないかもしれない」

 あたしはしばらく迷って、正直に恋人の存在を説明した。先生はもう3年ほど恋人がいないのだと言った。結婚もしたいけれどなかなか機会がない、と残念そうに説明した。
 あたしは何と言っていいのか分からず、励ますつもりで「とても素敵だから、すぐにいい人が現れるよ」と言った。それはありがちな誉め言葉であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 そんなことを話すうちにどっぷり日が暮れて、駅前ではネオンサインが綺麗に光っていた。その日はとても寒く、あたしたちは何となく寄り添って歩いていた。店を出てどんな話をしていたのか覚えていないが、先生は突然道の真ん中で立ち止まった。あたしが何かを言う前に、彼は器用に顔を近づけた。避ける間もなかった。信じられないぐらい温かい唇だった。
 あんまり驚いたあたしは「いつからキスしようと思っていたんですか」とバカみたいな質問をして先生に笑われた。先生はひとしきり笑ったあと「ごめんなさい」と、小さな声で言った。

 帰り道、あたしは少しばかり動揺していた。あたしたちはもう十分大人で、しかも独身同士なのだからこんなじゃれ合いの一つや二つ、あってもおかしくないのかもしれない。いわばありふれた秘密だ。
 しかしながらキスをするつもりはなかった、とざわつく気持ちを抑えながらあたしは思った。避けようもない事故のようなキスだったとしても、一つの秘密を彼と共有してしまったことが悔やまれた。それは甘い毒物みたいに心の中を侵し続ける。
 誓って言うが、恋に落ちたわけじゃない。あたしは心の中でそう繰り返しながら、自分の帰るべき場所へと急いだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?