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創作文芸

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まばたきの速度

まばたきの速度

まるで炎のまえにいるかのような熱風がホームをはしる。
アスファルトの湯気の向こう、遠い記憶をさぐるように景色がにじむ。

あなたといると一日がみじかい。起きていても、眠っていても。
みじかい一日をたくさん積み重ねて、まばたきの速度で季節が変わる。
きっとわたしたちは、あっという間に歳をとる。
あとどれぐらい一緒にいられるんだろうね。
人生はそう長くない。

午前九時の常磐線が肌の温度を奪っていく。

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四倍速のしあわせを

四倍速のしあわせを

夕飯はなにがいいかと尋ねたら、シチューがいいなと返ってきた。彼のいうシチューは具がごろごろと入ったホワイトシチューで、大きなボウルにたっぷりとよそって、それだけを黙々と何杯も食べる。
「ごはんとか、パンとか、いらないの」と聞くと、「だって、シチューって小麦粉だし」と彼はいう。変わらない答えに胸がちくちくと痛んだ。

彼とは、かつて住んでいた部屋のすぐそばのコンビニエンスストアで知り合った。再会した

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きみの嫌いなもの

きみの嫌いなもの

カサカサと紙袋を開いて、紙のカップに入ったコーラを取り出す。時間が経ってしまったからだろう、紙カップは少しふやけてやわらかくなっている。ストローを挿して、氷が溶けて薄まってしまったコーラをひと息で飲み干し、ため息をついた。

ハンバーガーを買ったのは、久しぶりだった。

「ああいうファストフードって、嫌いなんだよね」

深夜、煌々と光るハンバーガーショップのネオンライトを見て、運転をしていた彼がつ

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夏の夜の夢

夏の夜の夢

毎晩のように、好きだったひとの夢をみる。

湾岸道路を、少し離れて並んで歩く。
歩道を行く自転車が、わたしたちのあいだをすり抜けていく。
好きだったひとがすぐ横にいるのに、その顔を直視することができずに、わたしは彼の足元で跳ねるスニーカーの紐ばかり眺めている。

彼がわたしを「春の朝みたいなひとだ」とたとえたことがあった。
「あなたのそばにいると、あたたかくて眠たくなる」
言葉のとおり、彼はよく眠

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ひとり

ひとり

ときどき、無性にひとりになりたいときがある。

特になにをするわけでもなく、濁ったり、透明になったり、世界から切り離された自分を、時間をかけて見つめたい。
よごれた河川に落ちたペットボトルの空き容器のように揺蕩いながら、めぐる思考に流れ流されていたい。
砂浜に流れ着いたとびきりの貝殻を探すように、忙しない日々にまぎれてしまった特別を探したい。

体にぴたりと合ったソファに寝そべりながら、自分に問う

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いつかすべての

いつかすべての

いつかすべての夜が 少しずつひかりを迎えるように
いつかすべての声が 波打ち際でまどろむ砂のように
穏やかな重さを帯びて あなたのもとへ届きますように

いつかすべての朝が やがて閉じる日々に泣く鳥のように
いつかすべての思いが 読みかけたまま目をそらした本のように
暮れていく今日を終えて 明日のあなたをつくりますように

いつかすべてのあなたが ひとつずつしあわせに触れるように
いつかすべての歌

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極彩色の夜に

極彩色の夜に

時刻は午前二時。
向かいに座る男の胸には、いかにも重厚そうな黒いカセットデッキが鎮座している。
男がゆっくりと話しはじめると、それはキュルキュルと音を立て、男の声に沿うようにしてやわらかな旋律を奏ではじめた。

「やさしい音ですね」

「珍しいでしょう。こころに音があるなんて」

人のこころには、それぞれにきまった色やかたちがある。
生まれたばかりのころはまっさらだった胸元のキャンバスに、さまざま

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から揚げ日和

から揚げ日和

すっかりと錆びついてしまった揚げ鍋に油を注ぎ、衣にくぐらせた鶏肉を次々と放っていく。
ほんのりと色づいたら引きあげて、すかさず火を強める。
温度を上げて、もう一度油の中へ。
ジュワっと激しく泡立って、熱をまとった小さな飛沫が跳ねた。

「熱っ……」

指先にぽつぽつと飛び散った油が皮膚を焼く。じりじりと、熱を持つ。

――あ、もうきつね色。

急いで引きあげないと、焦げてしまう。
揚げ物は、時間と

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七月九日の最高気温

七月九日の最高気温

ごうん、ごうん、ごうん。
からからに乾いた畳に寝そべりながら、洗濯機のたてる規則的なリズムに耳を傾ける。
投げ出した脚にさす夏の日差しがぽかぽかと心地よく、熱に触れたバターのように、意識がすうっととろけてしまいそうになる。
――いけない。
いまにも畳に沈みこんでしまいそうな体をぐっと起こすと、少しだけめまいがした。けれど今日ばかりは、眠ってしまうわけにはいかない。
イツキさんが、やってくるのだ。

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くらげ

くらげ

「くらげってさ、死ぬときは水に溶けてなくなるんだって」
慣れた手つきでわたしを抱いたあと、身支度を整えながら男が言った。

「帰るの?」
「ごめんね、あんまり時間がなくて」
「……全然、いいよ」
「今度はきっと、もっと時間をつくるから」
「うん、楽しみにしてるね」

うわべだけの約束に期待を寄せるふりをしながら、あわてて部屋を出る男を見送り、洗面台の前に立つ。はり付いた笑顔をほどくように、両手で顔

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0.02

0.02

「ねえ、もう気にしなくていいよ」

習慣のようにコンドームに手を伸ばす彼の手首をつかんだ。

「どうせ、あと一日なんだし」
「……そうだけど」

そのニュースが世界を騒がせたのは、いまから一週間前のことだった。

たった、一週間。
一週間のうちに、すべての人は、生き物は、最期の日を迎える覚悟を決めなくてはならなかった。

告知があった当日こそ大変な騒ぎになったが、三日も経つころにはすっかり騒ぎは沈

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由緒正しき、喫茶店に寄せて

由緒正しき、喫茶店に寄せて

その喫茶店は、たしか神保町の商店街を一本入ったところにあった。
たしか、というのは、通っていたのがもう何年も前のことで、店名はおろか、店の位置が合っているかどうかさえ疑わしいからだ。

急な階段を下って地下へ。重い扉をひらくと、何年も染みついた古い煙草の臭いが飛び込んでくる。
なんとなく、いつも麻雀ゲーム機のテーブルに座る。
ゲームとして稼働していたことがあったのだろうか、なんてぼんやり考えながら

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焦燥のその先に

焦燥のその先に

ときどき、おそろしいほどの焦燥を感じることがある。
焦燥という言葉は、よくできていると思う。焦り。燥の字は、落ち着かないさまを表す漢字だ。こころがチリチリと焦げていく。

はげしい焦燥を感じたとき、とっさに「なにかをしなくては」と思う。
けれど、「なにか」がわからなくて、こころはますます焦りを増す。焦げていく。

そもそも感じる焦燥の多くは、焦って動いたところで解決しがたいものばかりであったりする

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きっともう、夏は近い。

きっともう、夏は近い。

背に受ける陽射しに背中がぽかぽかと温まりはじめるころ、わたしは決まって日傘をひっぱり出すことにしている。
褪せた桃色の布に、小さなレースがあしらわれた安物の日傘。
特に気に入っているわけでもないが、何年か前にふらりと入った雑貨店で手に取ってから、幾度かの夏を共に過ごしている。

雨傘よりも軽い〝バッ〟という小気味よい音を立てて、日傘をひらく。それから手元を両手で握って、ゆるゆると歩む。なぜだかここ

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