見出し画像

くらげ

「くらげってさ、死ぬときは水に溶けてなくなるんだって」
慣れた手つきでわたしを抱いたあと、身支度を整えながら男が言った。

「帰るの?」
「ごめんね、あんまり時間がなくて」
「……全然、いいよ」
「今度はきっと、もっと時間をつくるから」
「うん、楽しみにしてるね」

うわべだけの約束に期待を寄せるふりをしながら、あわてて部屋を出る男を見送り、洗面台の前に立つ。はり付いた笑顔をほどくように、両手で顔を覆った。わたしは、ちゃんと笑えていた? 鏡の向こうに問いかけながら、また苦く笑う。

月に一度だけ、わたしの部屋にやってきては、きまって一度だけ甘く抱き、どこかへ帰っていく男。
男と過ごす時間は、まるで水のなかにいるようだった。
とってつけたような甘い言葉と指先に少しだけ浮かび上がっては、埋めることのできない距離感にまた沈んでいく。
そうして、どのぐらいの日々を過ごしただろう。
溺れる、と思った。自分の体に沈みゆく男を受け入れながら、わたしは少しずつ溺れていく。
一日のうちに、幾度となく男の輪郭を思い返しては、これはよくないと目を覆う。そういう時間が増えていく。焦れる。これはよくない。よくないのだから。

いつものように男を見送ったある晩、夢を見た。
分厚いガラス壁の向こう側、知らない女性としあわせそうに笑う男の姿を眺めている夢。
身を隠さなければ――。とっさにあたりを見渡すと、妙に鮮やかな水草がゆらゆらと揺蕩っていた。
――あぁ、ここは水槽だ。
ガラスに映る自分の姿は、透き通っていた。そう、まるでくらげのように。
「くらげってさ、死ぬときは水に溶けてなくなるんだって」
男の声が頭をめぐる。けれどその声も、次第に遠ざかっていく。
男は笑う。見たこともないような表情で、しあわせそうに笑う。手の届かない場所で、知らない女性と、しあわせそうに笑う。
あぁ、あいされてなどいなかったのだ。わかりきったことだったはずなのに、深く深く沈んでいく。
涙の代わりに、体がほどけた。端からこぼれるようにばらばらになって、水に溶ける。みるみる小さくなっていく。
きっとこのまま消えるのだ。ガラス越しに男の姿を眺めながら。
消えるのならば、いっそ一度ぐらい刺してやればよかった。毒針のようなするどい熱を持った思いを、伝えてしまえばよかったのだ。

「わたしは、あなたのことが」

激しい喉の渇きで目を覚ます。水の中にいたはずなのに、と思うとなんだか滑稽で少しだけ笑った。
喉のあたりに、何か重いものが引っかかっているような気がする。喉元に指をあてがわれ、ぐっと押し込まれたかのように息苦しい。
うまく呼吸ができていない気がして、思い切り息を吸い込み、それから大きく息を吐く――大丈夫、わたしは正常だ。言い聞かせるように、深呼吸をもうひとつ。吐ききったところで、つうっと涙が伝った。
けれど、いくら涙をこぼしても、わたしの体は溶けだしたりはしない。
男からの着信が響く。出てしまったら、きっとまた甘い言葉で言いくるめられてしまうのだろう。

「もしもし」

逃がれられない。けれど、本当は、逃がれたくないだけなのかもしれない。
いっそくらげのように、溶けて消えてしまえたら――願いながら、わたしはまた言葉を飲み込んだ。


************

本業のほうが終わらなくてヒィヒィなので息抜きに。
back numberの心えぐり系ソング「助演女優症」をBGMに仕事をしていたら、ずるい恋に惑う話が書きたくなって。あぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?