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七月九日の最高気温

ごうん、ごうん、ごうん。
からからに乾いた畳に寝そべりながら、洗濯機のたてる規則的なリズムに耳を傾ける。
投げ出した脚にさす夏の日差しがぽかぽかと心地よく、熱に触れたバターのように、意識がすうっととろけてしまいそうになる。
――いけない。
いまにも畳に沈みこんでしまいそうな体をぐっと起こすと、少しだけめまいがした。けれど今日ばかりは、眠ってしまうわけにはいかない。
イツキさんが、やってくるのだ。

「なんとなく、世界中の通貨に触れてみたくなって」
そう言って、イツキさんが行方をくらましたのはもう三か月も前のことだった。
イツキさんは、不思議な人だった。
あるときは、まだ誰も見たことがない虫を探しに。またあるときは、世界の風呂に入るために。
「特別なものを探しているんですよ。ジャンルは問わず」
イツキさんはさまざまな理由をつけて行方をくらましては、数か月おきにひょっこりと現れる。たくさんの土産話を引き連れて。

「知っていますか。世界中のすべての硬貨のうち、水に浮くのは1円玉だけなんですよ」
「まさか、やってみたんですか」
「そう、風呂に浅く水を張って、世界中の硬貨を放ってみたんです。浮いたのは、1円玉だけ。どうです、知っていましたか」
イツキさんの話は、どれもとりとめのないものばかりだった。
その内容にはさして興味がないし、これといって面白い話ではなかったけれど、イツキさんの話す口ぶりがとてもよかった。
低すぎず、高すぎない声色。それから、言葉の選びかた。
音楽のようだ、と思ったことがあった。わたしの部屋にある秒針のうるさい時計が、まるでメトロノームのようにカチカチと響く。イツキさんは、歩くような速度で言葉を紡ぐ。歌うような温度で呼吸をする。

そうしてひとしきり土産話を終えると、イツキさんはわたしを抱く。
そうするのが当たり前であるかのように、ふつうの顔をしてはじめる。
わたしもイツキさんにならって、ふつうの顔をして終える。
恋人同士でもないのに……などとは思わせない、独特な空気がそこにはあった。


「そういうのって、都合がよすぎる」
結局は体の関係じゃないの、と憤る友人には、何も言えなかった。
突き詰めればきっとそういうことなのだろうし、イツキさんが行方をくらます理由を信じていいのかどうかも、わたしにはよくわからなかった。
そもそも、信じることが必要だろうか。
正直なところ、そういうのはすべて、どうでもよかった。
ただ目の前にイツキさんがいる時間だけが大切で、それ以外のことはどうでもいいように思えた。
イツキさんに触れられると、わたしもイツキさんが探す特別なもののひとつになったような気がする。
カンゲルルススアークの、世界一の晴れ間で眺めるオーロラ。星空保護区の夜空に浮かぶ、幻のような世界……。

わたしは数か月おきに訪れるその日のことを考えて日々を過ごす。主人の帰りを待ちわびる犬のように、ときどきしか鳴らない電話を祈るように眺める。
「行かないで、って言っちゃえばいいのに」
友人は言う。けれど、しっくりこないな、と思う。
わたしが求めているのは、イツキさんだ。誰かや何かにとらわれず、いつも特別な何かを探してさまよう、イツキさんのままの、イツキさんだ。けっして自分に都合のいい男性がほしいわけではないのだ。


約束の時間まで、あと一時間。きまって三十分は遅れてくるから、まだ少し時間に余裕がある。
きょうは、いったいどんな話を聞かせてくれるのだろう。会いたいな、と思う。触れたいな、とも。

がこん、と洗濯機が大きくないた。
しんと静まり返った部屋に、カチコチと音を立てる秒針の音色がひときわ大きく響く。イツキさんの歌うような声を思い出して、頬がゆるむ。

会ったら、まずは「おかえりなさい」と言おう。そうしたら、イツキさんは「ただいま」と笑ってくれるだろうか。

きっと洗濯物はすぐに乾く。すっかり水分の抜けた洗濯物を抱えながら、これからやってくるささやかなしあわせに、ちいさく笑った。

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ハッシュタグ「 #待ち遠しい 」に参加したくて。
遠距離恋愛のカップルの話を書きたかったはずなのに、遠距離恋愛ってぴんとこなくてこんなお話になってしまいました。

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