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焦燥のその先に

ときどき、おそろしいほどの焦燥を感じることがある。
焦燥という言葉は、よくできていると思う。焦り。燥の字は、落ち着かないさまを表す漢字だ。こころがチリチリと焦げていく。

はげしい焦燥を感じたとき、とっさに「なにかをしなくては」と思う。
けれど、「なにか」がわからなくて、こころはますます焦りを増す。焦げていく。

そもそも感じる焦燥の多くは、焦って動いたところで解決しがたいものばかりであったりする。
満たしきれない恋愛であったり、納得のいかない仕事であったり。
その原因はさまざまだけれど、どれも焦ったところで裏目に出るようなことばかりだ。だから、焦燥は悪いのだ。

焦燥を打ち消そうとするとき、わたしは無心になって歩くことにしている。
家のなかではつまらないから、ささっと身なりを整えて外に出る。
大きな帽子をかぶってしまえば、髪の乱れもさほど気にならない。
家を出て、右に行くか、左に行くか悩む。だいたいの場合、右を選ぶ。
そういえば、逃亡者は南を目指すと聞いたことがあったから、わたしも無意識のうちに南に逃れようとしているのかもしれない。家を背にして右側が、南に向かう道なのかどうかはわからないけれど。

そうして、脇目も振らずに歩く。ただただ、歩む。
信号待ちになると、少し焦れる。また焦燥が襲う。こころがざわめく。
そういうときは、あたりを見渡す。
知らないひとの横顔を少しだけ覗きこんでみたり、道の端で丸まる猫に目をやったりする。自分以外のものに目を向ける。
ときどき、知らないひとと言葉を交わしたりもする。
「暑いですね」「本当に」他愛もない会話に、こころがゆるむ。
歩いているうちに、息があがる。吐く息がすっかり温まってきたころ、少しずつ焦燥が溶けはじめる。こころを焦がしていた厄介な熱が、すうっと引いていく。

焦燥から逃れるのに必要な時間はまちまちだ。
たったの三十分歩いただけで熱が引くこともあれば、丸一日歩いてもじりじりと燻ってしまうこともある。
そういうときは捨て去ることを諦めて、棚からとっておきのブランデーを出してきて、とっておきのグラスに少しだけ注ぐ。
舌の先でちろりと舐めて、口のなかで揮発する毒の艶やかな香りに溺れる。
舐めるごとに燻るこころはいっそう熱を帯びて、焦燥はいきおいを増していく。
そうして眠りにつくまでのあいだ、焦燥のその先にある欲に目を向ける。

焦燥を抱えたこころはせわしない。くるしい。さみしい。せつない。痛い。
だから、焦燥は悪い。けれど、悪いだけじゃない。
焦燥はすべて、そこに欲があるからこそ生まれるもの。
焦れるこころはやっかいだけれど、欲を持つのは悪くはないのだ。
わたしたちはきっと誰もが、欲を持たねば生きられないのだから。

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