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0.02

「ねえ、もう気にしなくていいよ」

習慣のようにコンドームに手を伸ばす彼の手首をつかんだ。

「どうせ、あと一日なんだし」
「……そうだけど」

そのニュースが世界を騒がせたのは、いまから一週間前のことだった。

たった、一週間。
一週間のうちに、すべての人は、生き物は、最期の日を迎える覚悟を決めなくてはならなかった。

告知があった当日こそ大変な騒ぎになったが、三日も経つころにはすっかり騒ぎは沈静化し、滅亡を目前に控えたいまも変わらずこの国は機能していた。
小規模な暴動や治安の悪化は見られたものの、諦めを貼り付けたような日常が、ただ平然と続いている。
残りの日数が決まっているとなると買い占めようという人も少ないのか、スーパーやコンビニに行けばそれなりの食品が並んでいたし、レストランだって一部は営業を続けているのだから、食べ物に困ることさえない。
テレビの向こうでは、最期の日まで芸人でありたいと名乗りあげた有志たちが、国民を笑わせ、やたらと高い視聴率を叩きだしていた。

無駄に責任感の強い国民性が、こんなときにまで……なんてね――。

「ごめん、やっぱりつけるよ」

背を向けてコンドームを装着しはじめた彼を眺めながら、小さくため息をついた。
「最期まで責任持たせて」と彼は言った。
セキニン。それは、わたしに向けられた言葉ではないのだろう。
悔しさと惨めさが入り混じった苦い感情を抱えたまま、わたしのなかに沈みゆく彼を受け入れる。

告知を受けた日に、二人そろって職場に辞意を伝えてから、彼はきまってわたしの部屋を訪ねてくるようになった。
スーツ姿のままやってくるのは、彼が「出社」という建前を取らなければならない相手がいるからに違いない。

仕事をしていたときのように化粧をし、髪を整え、きまって午前九時に訪れる彼を待つ。
打ち合わせをするときのように向かい合って一杯ずつコーヒーを飲み、それから示し合わせたようにベッドに向かう。
午前と午後で、一日に二回。ほとんど言葉を交わさないまま事務的に体をかさね、たった五日のあいだに、わたしの体はすっかり彼に馴染んでしまった。

「これで最期ね」

最期の日を明日に控えてもなお、彼はわたしの部屋を訪ねてきていた。
本当は、スーツでやってくることに特別な意味などないのかもしれない。
帰る場所など、ないのかもしれない。
けれどもしも、引き留めて拒絶されたら――。
期待と希望。それから猜疑心。
さまざまな思いが波のように押し寄せては引いて、わたしは結局なにも言えなかった。

果てる間際に額を首筋にこすりつけてくる彼の癖。
抱きしめられながらゆっくりと奥のほうからさすりあげられると、打ち上げられた魚のように体がびくびくと跳ねあがる。
彼の果てる瞬間、背中のほうからぞくぞくと悪寒のようなものがやってきて、満たしきれない歯がゆさに震えた。


「どうか、最期の日はいちばん大切な人と過ごして」

別れ際に笑って見せたわたしに、彼は何も言わなかった。
一度も破られることのなかった0.02ミリの壁。彼との境界線。一度もわたしの名前を呼ばなかった卑怯な人。わたしが、最期にあいした人。

最期の日、彼はとうとうわたしの部屋には現れなかった。きっと、いちばん大切な人のところにいるのだろう。

せめて、夢の中では――。

願いながら、枕元に置いた時計に目をやる。予定時刻まであと三時間。きっとわたしは眠れない。それでも、もう二度と来ることのない時間を願わずにはいられなかった。

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