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いじめや不登校などを経験した時に夢中になった大道芸。ひろとさんにしか出来ないものとは?

こんにちは、翼祈(たすき)です。

兵庫県には、いじめや不登校などを経験し、孤独を感じる中で、夢中になって遊んだ、大道芸を仕事にしている男性がいます。

5本をお手玉の様に次々投げては掴む。炎が揺らめくトーチが宙を舞う曲芸に歓声が湧きました。兵庫県内各地のイベントに出演する大道芸人のひろとさんは軽妙なトークも差し込みながら沢山集まったお客様を笑わせますが、実は小中学校は不登校で通学できなかったといいます。

孤独の中で一人で遊んでいたのがこまやヨーヨーでした。夢中になれるもの、居場所ができて救われました」と回顧します。

今回はひろとさん大道芸の道に進んだ経緯をお話します。

ひろとさんが、大道芸人になるまでの道のり

ひろとさんの家は、母子家庭でした。小学1年生の時に、境遇を同級生にからかわれるなどのいじめを受け、不登校になりました。お母さんが担任にひろとさんのことを相談すると「息子さんにも問題があるのでは?」と返されて、激しく憤慨しました。もうお母さんは「きちんと学校に行きなさい」とは言わなくなりました。

ひろとさんが大道芸と出逢ったのはその翌年のことでした。「亡くなった」と聞かされていたお父さんに、お母さんが会わせてくれました。3人で外出したのは、大阪府大阪市にある海遊館でした。観覧車を降りると、大道芸を初めて観ました。「両親が楽しそうに大道芸を観ていて、僕も楽しかったです」とひろとさんには鮮やかにその時の記憶が残りました。

その後、孤独に感じていた時間は変わりました。お母さんが仕事でいない昼間、中国ごまやヨーヨーに夢中になりました。「電気や水が止まる日もある」日常でしたが、侘しさや寂しさは、どこかに消えていきました。

小学6年生から中学生時代は地域の高齢者が集うゲートボールに参加し、早朝から夕方まで没頭する毎日でした。「ハマり症なんでしょうね。みんなが僕の事情を理解し、優しく見守って接してくれました」と感謝をしました。

15歳から壁紙職人として仕事をしていましたが、親方の「大道芸人になりたいんでしょう?うちで働いていていいのか?」という言葉にハッとし、それから18歳まで3年間、ビデオや本で独学で大道芸を勉強しました。「寝ている時間以外は大道芸の練習していました」と振り返ります。

現在、大道芸人として活動する上で、主戦場の1つは両親との思い出が詰まった海遊館です。結婚式も海遊館で挙げ、両親も結婚式に出席してくれました。今では4歳の長男にも恵まれ、兵庫県明石市にある会社が各地で主催するイベント[ロハスパーク]にも出演しています。

バルーンアートやテニスラケット、水晶玉、ボールのジャグリング…。「大きな声で人と話せなかった僕が人前で大道芸を披露しています。あの当時の僕のことを知っている人は、皆驚いています」と笑い、学校生活など生きづらさの悩みを抱えている子ども達に「学校に全ての正解があるわけではありません。何か夢中になれることを探して欲しいです」と述べます。

参考:貧困、いじめ、不登校…大道芸が変えた僕の人生 母子家庭で育ったひろとさん、出発点は両親と訪れた海遊館 神戸新聞NEXT(2023年)

外での大道芸は、天候にも左右される仕事ですが、「大道芸は僕の人生の全てです。大道芸は、他の目的でそこに遊びに来ていてたまたま出逢うものじゃないですか?僕のパフォーマンスを観て、大道芸を好きになって欲しいですし、ご自宅で親子、きょうだいの会話の話題の1つになれれば嬉しく感じます」と笑顔が弾けました。

何かに夢中になれる人は強い

私がひろとさんと共通するところは、いじめや不登校ですね。ひろとさんは寂しい思いをしても、その中で大道芸と出逢い、夢中になってヨーヨーやこまをして、その後天職となった。

悲しい経験をし、人の痛みが分かる人は強いし、何かに夢中になれる人も強い。

私は不登校は大学時代で、その後引きこもりになりましたが、その間にも文章を書き続けています。何かに将来に繋げたいとかではなく、文章を書くことで、悲しさ、寂しさ、侘しさなどの複雑な感情を癒やすことができました。

あの当時からしていたことが、今は天職になっています。1日に書ける量は決まっていますが、会社が運営するサイトでも、今noteでもこうやって記事を書いています。

本当にずっと書きたくて書きたくて仕方がなくて、ずっと書き続けています。

ひろとさんの話に戻りますが、過去の経験が大道芸に活かされて、今沢山の人を笑顔にしていると思います。

ご家族との思い出がある海遊館で、ご活躍されているのも感慨深いですね。これからもひろとさんにしかできない大道芸を皆さんに魅せて下さいね。



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