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A Course in Miracles 学習&実践レポート

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『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体…
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#赦し

「赦し」は真のアイデンティティーを思い出していくためのものである

「赦し」は真のアイデンティティーを思い出していくためのものである

自分は心(の決断の主体)である、ということを自覚していくための方法私たちは自分を人間だと信じていて、本当は自分が何者なのか?自分は誰なのか?についてすっかり忘れた状態になっています。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、その忘れてしまった自分の本性、つまり、真のアイデンティティーを思い出していくことを目的としていると言うことができます。

ですから、その実践では、自分は心(の決断の主体

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「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける

「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける


無垢ではない者が無垢なる顔を装おうとする私たちはつい、無垢なる顔を装おうとします。

つまり、自分は善良であろうとするわけです。

そう、私たちは、「清くあろう、正しくあろう、善良であろう」と思っていて、それが良きことだと思っています。

特に、スピリチュアルを探究する者であったり、神聖さを求めている探究者であったりすると、その想いがなおさら強いといえましょう。

ただし、コース学習者の私たちは

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それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である

それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である

思考を止めようとすることについてノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティの実践において、ときに、思考を止めることを試みようとしたりします。

たしかに、静かに座って、深い瞑想に入っていくならば、(それにはかなりの訓練を要しますが、)それは可能だったりします。

ただし、たとえそれができたとしても、また日々の日常生活に戻っていくならば、思考はまた沸き起こってくることになります。

ようするに、

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自分は誰なのか?を思い出していくための実践的な手段が、「赦し」です

自分は誰なのか?を思い出していくための実践的な手段が、「赦し」です


学びの深化とはどういうものかコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深化していくにつれて、不思議な感覚になっているのを実感します。

というのも、コースの教えが根付いていっていると同時に、もはやそれはコースが教えていることなのだろうか?という感覚になるからです。

もっといえば、それがコースでなくたって、他の非二元の霊性の道であってもいいと思えるようになってきたということです。

それ

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私たちは幸せになるためにこの世界にいるのではなく、じつは、その真逆である

私たちは幸せになるためにこの世界にいるのではなく、じつは、その真逆である

無意識のレベルが明らかになっていくとき私たちは誰もが幸せになりたいと思っています。

誰一人も幸せになりたくない人などいません。

だからこそ私たちは幸せになろうとして、この世界で日々をあくせく生きているわけです。

そんな人たちの中でも、物質的なものでは幸せにはなれないと気づいた者たちはスピリチュアルにその幸せを求めはじめるわけです。

そしてさらには、スピリチュアルですらも満たされることのなか

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想念はその源を離れない、投影が知覚を作り出す

想念はその源を離れない、投影が知覚を作り出す


この世界には問題などないこの世界には問題がたくさんあるかのように見えます。

それが世界の情勢であったり、あるいは個人的な仕事上の問題であったり、人間関係の問題であったり、健康の問題であったり、経済的な問題であったり、、、たくさん問題があるかのように見えます。

でも、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えに基づいてその実践をしていくならば、外側の世界には何の問題もないということが体験的に理解さ

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「愛する」とは?

「愛する」とは?

「愛」をこの世界に反映したものが「赦し」です
コース(奇跡のコース/奇跡講座)で「愛する」というとき、それは、「赦す」ということなのだと、私たちは知っておく必要があります。

というのも、私たちは、愛を知りません。

私たちは、愛するということを知りません。

なぜなら、愛は実相、天国に属するものだからです。

もっといえば、この世界自体が「無」であるわけで、この世界の中に愛があるわけがありません

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「二重の盾」について

「二重の盾」について

二重の盾を超えて真理の光に到達するコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において、私たちは、原因に戻る、つまり、心に戻ることをしていきます。

ワプニック博士の言葉を使うなら、「心の決断の主体」のサークル(空席となっている場所)に戻ることをしていくわけです。

そのために、私たちは、「二重の盾」を超えていかなければなりません。

「二重の盾」とは、コースで出てくる言葉です。

ですが、コースの学習

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自我がしていることに対して笑って見れるようになるために

自我がしていることに対して笑って見れるようになるために


一歩下がる、一歩退くこの世界から手を引く。

この人生から手を引く。

この自分から手を引く。

私たちは最終的そのようになっていくわけですが、それは、形態のレベル、行動のレベルのことを云っているのではありません。

それを形態のレベルと混同するならば、まったく意味のないことになるどころか、トンチンカンなことになってしまいかねません。

そして、そういうことは、これまでの歴史上でもほとんどの求道

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自我から見るならば、すべてが深刻です

自我から見るならば、すべてが深刻です

自我から見るのか?赦しから見るのか?コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしていくことは?

というなら、

自我から見るのか?赦しから見るのか?

の選択なのだといえます。

この世界を見るとき、二つの見方があるのだということです。

それをコースでは。

自我を教師するのか?聖霊を教師とするのか?

というふうな言い方をします。

コースの観点から見るならば、この世界には二つの

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コースの学びと実践を通して私が理解したこと、そしてその成果について

コースの学びと実践を通して私が理解したこと、そしてその成果について


何が真の赦しであるかについてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習の歩みは、「形而上学(理論)の学び」と「実践を通しての学び」の両輪によって、その学びは深化していくと言うことができます。

ですから、コース形而上学の学びも重要なのはもちろんのこと、それが実践において適用されていかないならば、学びを深めていくことはけっしてないということです。

そして、その実践的な手段が、「赦し」と呼んで

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聖なる瞬間の扉が開かれるとき

聖なる瞬間の扉が開かれるとき

「裁き」から「赦し」へ私たちが外側の何かや誰かを裁き、怒り、攻撃するとき、

外側には世界も無ければ、他者もいないわけで、

ならば、その自分はいったい何を、誰を、裁いているのでしょう?

その答えは、自分自身以外の何ものでもありません。

つまり、争い、闘いはただ自分の心の中で起きているだけなのです。

この世界は、それを外側に映し出しているだけの影にしかすぎないのです。

自分は自分自身と闘っ

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兄弟なしでは目覚めることなどけっしてあり得ない

兄弟なしでは目覚めることなどけっしてあり得ない


兄弟のしなかったことを赦すコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では兄弟を赦すことについて、「兄弟のしなかったことを赦す」という言い方をします。

それは、いったいどういう意味なのでしょう?

コースの学びが浅い初期段階のうちは、その意味がなかなか理解できないものです。

それは、日々の実践を通して体験的にようやく理解されてくるものだと言うことができましょう。

実践してみれば分かることです

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