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#赦し
「奇跡」とは、この世界を超えたもう一つの見方を思い出していくための方法である
なぜ私はこの世界にいるのか?「私」という存在は何なのか?
なぜ、「私」はこの世界にいるのか?
なぜ、天国(ワンネス)ではなく、分離の世界にいるのか?
そのような自己の本質に関する疑問に対して、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)はその答えを明確に示してくれているといえます。
その答えは、つまりは、私たちが神の愛を恐れているからと言うことができます。
神の愛を恐れているから、私たちは
あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか
自我の精神力動について私たちは理解しなければならないこの世界にいる私たちはみんなゴシップが大好きです。
ようするに、他の誰かを裁いたり咎めたりするのが心地いいわけです。
というのも、そうすることで自分はまともで、潔白で、無垢だ、善人だとすることができるからです。
コースの観点から見るとき、誰かを裁いたり咎めたり批判したりしているその自分は、「自分はまともで、正気で、正しくて、優秀で、罪なき
どのような考え方で、どのような実践をしていくのか?について明確に理解していくこと
コースのイエスや聖霊は、この世界を、そして私たちをどのように見ているか?について学ぶ私たちは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を通して何を学んでいるのか?
というなら、
これまで私たちが知覚している見方とはまったく異なる知覚の仕方があるのだということを学んでいるといえましょう。
というのも、私たちはそのもう一つの見方があるということをすっかり忘れて見失ってしまっているからです。
問題があるところの同じ場所に、その解決法もある
問題は一つ、解決法も一つ私たちが現実と捉えているこの世界では、様々な問題が形を変えて現れてきます。
次から次へとまるで問題が尽きることがありません。
私たちはその問題を解決することに日々追われていると言うことができます。
人生の大半がそのことで費やされているとさえ言うことができるでしょう。
私たちはそのようにして常に目の前の世界、目の前の人生と戦っているといえます。
コース(奇跡のコー
ネガティブな感情やネガティブな感覚について
内側で拒絶されたものは外側へ投影される普通、私たちはネガティブな感情やネガティブな感覚というものを嫌っています。
なぜなら、それらは不快な感覚だからです。
いわゆる、ネガティブな感情や感覚というものを嫌なもの、悪いものとして捉えているわけです。
そう、自分の内側にあるネガティブなものを拒絶し、排除しようとするわけですが、
そうするとどうなるか?
というと、内側で拒絶されたものは、外側へ
そこに知覚されるものが虚偽であると分かるとき、そこに見えてくるもの
「ここ」がすでにわが家なのだということ私たちは何のためにコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのか?
というなら、もちろん、「神のもとに帰る」「わが家に帰る」ことを目的としてコースを学んでいるといえます。
そんな私たちが知っておくべきことは、ここではないどこかにわが家(天国/神の国)があるのではないということです。
本当は、「ここ」がわが家(天国/神の国)なのだということで
「奇跡」はなぜ時間の短縮になるのか?
すべてを知る者から探究者となってしまった私たち本来は、私たちは「一なるものとしてつながっている一体性(ワンネス)」(T-25.Ⅰ.7:1)であるわけです。
それを、「神」あるいは、「神の国」「天国」と呼んだりしています。
あるいは、「智識」と呼んでいます。
つまり、私たちは本来、智識そのものであるということです。
智識とは、すなわち、すべてを知っている状態を言います。
本来の私たちはそ
問題を認識しないかぎり、真理を知っているだけでは何の役にも立たない
問題を認識することの重要性この世界は幻想です。
この世界は実在しません。
分離は起きていません。
私たちは一つ(ワンネス)です。
すべては愛です。
非二元の観点からいうなら、それが真理であり、それが答えです。
ただし、私たちが知っておくべきことは、その答えを知っているだけでは、私たちがこの世界の夢から目覚めていくためにはほとんど役に立たないということです。
この世界が幻想だといくら分かってい
肉体について、コースではどのように見ていくのか?
肉体とは肉体とは何か?
というなら、コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、自我のシンボル(象徴)という言い方をしています。
つまり、特別性、個別性の象徴だということです。
また、それは不完全さの象徴でもあります。
実際に、傷つくことができますし、死というものが必ず来ます。
まさに、不完全で、脆弱で、卑小で、有限な存在としての象徴であり、その証しとなっているのが、まさに肉体です。
本来は
誰かを裁くとき、咎めるとき、それは自分自身をただ攻撃しているだけ
外側には誰もいないとしたなら誰かを裁いているとき、咎めているとき、私たちは何をしているか?
というなら、
内容(心のレベル)においては自分も同じことをしているにもかかわらず、自分はそういうことはしない、自分はその人とは別である、というふうに見ているということです。
それを、「投影」と呼びます。
自分も同じことをしているにもかかわらず、そのことを自覚していないときに、それを外側に「投影」す