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誰かを裁くとき、咎めるとき、それは自分自身をただ攻撃しているだけ


外側には誰もいないとしたなら

誰かを裁いているとき、咎めているとき、私たちは何をしているか?

というなら、

内容(心のレベル)においては自分も同じことをしているにもかかわらず、自分はそういうことはしない、自分はその人とは別である、というふうに見ているということです。

それを、「投影」と呼びます。

自分も同じことをしているにもかかわらず、そのことを自覚していないときに、それを外側に「投影」するわけです。

自分のことは棚に上げて、自分以外の誰かのせいにして裁くわけです。

その真実を理解するようになるならば、結局のところ、自分で自分自身を裁いているということを理解するようになります。

裁くのも自分で、裁かれるのも自分です。

外側には誰もいません。

自分の罪を外側に見ているだけです。

この世界で私たちは何をしているのか?というなら、そういうことをしているということです。

誰かを裁くとき、咎めるとき、私たちは自分自身をただ攻撃しているだけだと認識していくことは、とても重要です。

というのも、そのことを認識していくならば、当然、裁き、攻撃を正当化しなくなっていくからです。

それが自分自身を傷けるものであると理解するならば、誰がそれをし続けようとするでしょうか。

私たちはこの世界の夢の中で何をしているのか?

そのことについて私たちは知る必要があります。

学ぶ必要があるのです。

そう、コース(奇跡のコース/奇跡講座)は、私たちがそのことを自覚/認識できるように導いてくれている霊性の道だといえましょう。


すべてが虚偽だと明らかになるとき

コース形而上学がしっかり学ばれ、そしてコースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、次第に日々の中で「投影」に気づけるようになっていくといえます。

自分の内側にある「罪」を存在させたいがために、つまり、「自分」という個別の自己が実在していると信じていたいがために、外側に世界があるかのように知覚しているだけだと気づくようになっていくということです。

すべてが自分ででっち上げた夢のストーリーでしかないと受け入れるとき、そして、そこから見るとき、もはや「罪」は見えません。

それというのも、「罪」だと見えていたものが虚偽だと分かるからです。

むしろ、自分から「罪」として見たがっていただけだったのが明らかになります。

無であるにもかかわらず、「罪」として自分ででっち上げているだけだと。

真実は、何もしていないし、何も起きていないのです。

まさにイエス、聖霊は、そのように見ているということです。

そのように見ることのできる視点(視座)があるわけで、コースの実践を通してその視点を思い出すことが、私たちに求められているのです。


”罪は存在していなかったと見るのである。その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。・・・赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。”(W-pⅡ.1.1:3‐4;1:6)

奇跡講座/中央アート出版社


その視点(視座)から見るとき、それがイエス、聖霊と共に見るということであり、それがコース(奇跡のコース/奇跡講座)で「赦し」と呼んでいるものです。

そこから見るならば、すべてが虚偽だと明らかになります。

何もしていないし、何も起きていない、すべてがでっち上げた虚偽であると分かります。

そこから見えている知覚を「(聖霊の)ヴィジョン」と呼んでいます。

ヴィジョンとは、真の知覚のことです。

いわゆる、「悟りの視点」です。

その知覚を修得していくことが、私たちコース学習者が目標としているものなわけです。

コース学習者であるならば、誰かを裁きたくなるとき、咎めたくなるとき、まずは、自分が知覚しているものはすべて「投影」であると認識していくことです。

「外側に世界がある」「自分以外の何者かが存在している」と信じているかぎり、悟りの視点(聖霊のヴィジョン)も、「赦し」もあり得ないということを忘れないでおきましょう。

そのために、すべては自分で好んで見ている夢のストーリーであり、じつは、何もしていないし、何も起きていないのだということをコースの実践を通して体験的に理解していくことです。

その手段が、「赦し」なわけです。

赦しとは、外側に知覚するものすべて、そして、自分の内側で起きているそのすべてが虚偽だと認識していくことだと言うことができます。

私たちが日々していく赦しの実践は、そういうものであることを覚えておきましょう。


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