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「優秀で、優しい人間」が、1人でも多く育つ方法を考える。

 学校に通っていたとき、特に高校生くらいから、勉強ができる人間は、そうした人間だけでグループを作っていることが多い印象があった。

 そのことと、社会で仕事をする優秀さと決してイコールではないのだけど、それでも、会社社会が「学校化」していた日本では、結果として、その中に優秀な人間がいる確率は高かったと思う。

 自分自身は、その中にいなかった。だから、優秀な人間については、その中にいないと、決定的にわからないこともあるのかもしれないと、最近になって、改めて思うようになった。

 この人のプロフィールを見ると、「米国、オーストリアで11年ほど生活し、2022年に日本に帰国」とあるので、この傾向は、確かに日本独特のことかもしれない、とも思う。


頭が良くて、冷たい

 その傾向は、日本国内にいる人間でも感じているらしい。

 若さ故に見せなければいけないアタマの良さというのはきっとあって、それは多くの場合に奇妙な迫力を持って示される。少し前に、憲法改正について、超若者世代と準若者世代が意見交換をするという番組に最年長グループとして呼ばれて、一度に何人かの大学生とやはり何人かの大学を卒業したての起業家や活動家と数時間話したのだけど、若ければ若いほどアタマが良く、そしてとても冷たかった。そのような場では優しさなんていうのはとても愚鈍で不恰好で、若者たちがそのような態度を嫌うのもある意味よくわかる。

(「ニッポンのおじさん」より)

 あまり安直に決めつけるのも失礼だとは思うのだけど、著者は、大学教授を父にもち、本人も大学院を修了しているから、やはり基本的にはエリートであり、自身も優秀であるからこそ、わかる視点だと思った。

 優しさというのは想像力で、想像力というのはアタマの良さと経験の豊富さでしか手に入らない。だから本来はアタマの良さを冷たさで表現するなんていうことはおかしな話で、ひたすら自分の経験に欠けることを露呈しているだけなのだけど、若者はそれをしたがるのだ。どんな価値も相対的にしか語らず、時に死を過剰に軽視する非情さを演出し、それが合理的な判断に結びつくのだと宣う。

 若者のグループにいた優秀な学生の一人が、年長者というのは戦争を短期的なスタンスでしか見ていない、というようなことを言った。長期的なスタンスで見ればたとえ犠牲を伴ったとしても、大きなレジームチェンジになった場合に、悪だと言い切れるわけはないのだ、と。人の死を悲劇やノスタルジーではなく、数字で把握できるその「アタマの良さ」はすなわち、死と隣り合わせになったことがない人間、身近な死によって自分自身が変容するという経験がない人間の所業だと私には思える。私情というのは本来最も失くしてはいけない人の人たる所以なのだけど、若さというのは何にせよ私情混入の回避を好むのだ。 

 こうした、若くて「アタマが良く」ても、決定的な経験不足によって、冷たくなる場合がある、そして、そうなりがちといった指摘は、おそらくは著者自身も、優秀で若い人間だったからわかることだと思え、同時に、それはやはり、とても重要な視点だと感じた。

「教養と知性」と「冷たさ」

「教養も知性」もあり、その上で経済的な成功も収めている人間が、意外とも思えるけれど、「冷たさ」を見せることが少なくない。

 最悪な形が、DaiGoが二〇二一年八月七日に自身のチャンネルで公開した動画における「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」「ホームレスの命はどうでもいい」といった発言である。
 この発言は倫理的な問題をはらんでいるのはもちろんのこと、「教養や知性のある存在」として振る舞っているプレーヤーに公共の福祉に関する視点が著しく欠けていることを明らかにしている点で非常に興味深い。「生活保護の人たち」や「ホームレス」はおそらくその瞬間に限れば「ビジネス」という観点では成功していないだろう。そうした人たちへの視点の冷たさにはゾッとするものがある。

(「ファスト教養」より)

 ここで語られている人物は、膨大な読書量を誇り、「教養な知性のある存在」と思われているからこそ、その配信する動画も多数の再生数を誇っているのだと思う。だけど、世の中には、本人に落ち度がないのに、信じられないほど理不尽な出来事で、困窮する場合があることへの想像力は少ないようだ。

成功も失敗も偶然に左右されるし、そもそも努力できる性向を持っているかということ自体も偶然に左右される。そんなふうに思うことで、失敗した人や成果が出ていない人に対する目線も変わってくるはずである。  

さらに付け加えると、偶然に目を向けることは利他の発想ともつながっていく。

  自身で得たものをまずは「偶然」による産物だと認めたうえで、それを「世の中の波」に還元し、社会の大きなつながりそのものを底上げしようとする意識こそ、実は個人の成長を実現するうえでも必要になるのではないか。 

(「ファスト教養」より)

 DaiGo氏の冷たさは、冒頭に出てきた「優秀で冷たい若者」の印象と、やはり似ているように思えるし、「自己責任論」と相性が良さそうだからある程度以上の支持も得そうだけど、まずは成功には、想像以上に偶然が影響している、ということがわかると、その「冷たさ」が少しゆるんだりなど、影響は出てくるのだろうか。

 最近では、人の成功には運や不運が想像以上に影響を持っている、ということが国が違っても、主張されるようになってきている。

 こうした『実力も運のうち』といった書籍を読めば、本人が努力したはずの「実力」も、努力ができる環境にいる幸運も含めて、恵まれていた。といったことが分かり、想像力を働かせることができれば、そこで謙虚さを持てるようにもなると思うのだけど、2020年代の「優秀といわれる若者」は、こうした著名で話題になった本を読んでいるはずだ。

 そう考えると、ただ、情報として知っているだけでは、影響力が弱いのかもしれない、というよりは、「実力も運のうち」と強く思えるのは、どちらかと言えば、恵まれていない環境側にいる人間であり、恵まれている環境にいて、そのために優秀になることが達成できた側は、情報だけでは、それがピンとこない可能性が高い。

経済学者で米イェール大学助教の成田悠輔氏が日本の高齢化対策について「高齢者の集団自決、集団切腹みたいなのしかないんじゃないか」と発言したことが、極めて大きな問題になってきている。

(「Business Journal」より)

 この発言は、成田氏が何度もしているらしいが、かなり広く届くきっかけとなったのが、2021年暮れのネットニュース番組のはずだから、DaiGo氏の発言が問題になったあとだった。

 それに、この発言は問題にもなったものの、支持もされていて、同時に、その支持をしている人間は、偏見もあるかもしれないが、「優秀で若い人」の割合いが高く感じてしまう。

 そして、その優秀な人間の多くは、自らは意識していないとしても、恵まれた階層の出身であることは以前から言われていて、それは、教育にかける予算が多いほど、優秀になる確率は高くなる、という、シンプルな事実が背景にある。それは、実は長い間、暗黙の了解であったはずだ。

「優秀で冷たい人間」には、困窮状態にいる人は、愚かな存在にしか見えないのかもしれない。そして、それは想像以上に昔から変わっていない可能性もある。

エリートという階層

 フランス革命のとき、マリー・アントワネットが、「パンを寄こせ」と切実で必死な声をあげる民衆を見て、「パンがなければ、ケーキを食べればいいのに」と発言した、ということは、どこで知ったか覚えていないし、本当かどうかもわからない。

 だけど、これだけ広く届いているとすれば、そこに、エリート層は、そうした発想をするのではないか、といった説得力が宿っているせいだと思う。

 おそらく、悪意はなく、ただ知らないだけなのだろう。だから、それは、それほど責められることではないのかもしれないし、似たような発言、もしかしたら、もっと悪質な言葉は、日本の貴族でもあったようだ。

 ちなみに定家は、1230年代初頭に起きた寛喜の飢饉でも、巷でバタバタと人が死んでいっているにもかかわらず、「京都でもたくさん人が死んでいる。死骸の臭いが屋敷の中まで漂ってきて、たまったものではない」と他人事のようなことを記している。

 こうした記事に現れる定家のような人間の在り方こそエリート主義の体現ではないかと私は考える。人びとのピラミッドの上部にだけ視線を合わせると、間違いなくこうした偏向した眼差しになっていくものだ。 

(「歴史学者という病」より)

 こうした歴史的な事実などを知ると、やはりエリート層は、優秀な人間を生み出す確率が高いのだけど、その人たちが、自分ではない他人の痛みも想像できるような優しさを持つことは、かなり難しいのだと思わされる。

 では、厳しい環境の中で育った、痛みを知っている層からの方が、優しくて優秀な人間が出てくる確率は高くなるのだろうか。

苦労して地位を築いた者

 ちょっと歴史の教科書をひっくり返すと、何者としても生まれなかった者が上り詰めた先に、弱者の味方だったことはあまりない。苦労して地位を築いた者は、その地位を失うことがどのような事態を意味するのかよく知っているが故に、地位や財力に固執しがちな上に、力の使い方について根本的な教養が欠けていることも多いので、豊臣秀吉にせよホームレス中学生のあの人にせよ、得た権力や財産の使い方をミスることも多い。世襲が良いとは言わないが、持てる権力や財力への執着はどちらかというと叩き上げ系の人に見られる傾向だと思う。

 著者自身の分析が、やや「世襲のあるような階層寄り」ではあるけれど、こうした指摘はリアルだと思われる。

 苦難や貧困を経験した人が、苦難に対しての想像力があるかと言えば、それは結構微妙で、そこから抜け出した者独特の弱者への嫌悪があることもある。成功者の女性が、いまだ弱い立場にいる女性や専業主婦に露骨な差別感情を持つように、努力で成り上がった者が生活保護者らに過度に冷たくあたるように、自分が抜け出した苦難を抜け出さない者に対して、元から富んでいた者よりも往々にして厳しい。 

 かつて弱者だったり、何者でもなかった者が力をつけたときに、何の力もない者たちとまるっきり縁を切るのを見るのは、貧困などまるっきり知らない者が、あらお菓子を食べたらいいのに的な精神でダサいマスクを配るのを見るのと同じくらい悲しい。

(「ニッポンのおじさん」より)

 恵まれた層に生まれ育ち、「貧困などまるっきり知らない」ことで、想像力も持ちにくく、結果として優しくなれないのは分かるとしても、「苦難を抜け出した者」が、まだ抜け出していない者に対して苛烈になることは、確かに現在でも、少なくなく見られる。

 この書籍の著者の父も、かつては「持たざる者」だった。今は、そこから抜け出しているのだけど、現在の「持たざる者」に対して厳しく、それについて、息子である著者はこのように考えている。

 差別や貧困に傷つき、打ちひしがれた人を見ることで傷つく感情というものがあります。そこにかつての無力で立ちすくむほかなかった幼く弱い自分を見るのです。どうすることもできなかった現実は歳月がいくら経とうともずっとどうしようもないままです。

 父の怒りの引き金は「弱さ」です。彼は他人の弱い姿に我慢がなりません。努力をしていないから弱いのだと思い、怠慢さを責めるのでしょうが、それはあくまで投影です。自身が「傷ついた」という弱さを受け入れるわけにはいかないのです。その葛藤のエネルギーが怒りとして噴出し続けています。

(「モヤモヤの正体」より)

 私自身は、それほど厳しい環境でもなく、かといって世襲的な恵まれた立場でもないから、どうしても「持たざる者」から上っていった人間の方が気になるのだけど、確かに、そうした人の中では、今現在の「持たざる者」に厳しい人が少なくないという印象があった。

 だから、この著者の、父の怒りに対して『自身が「傷ついた」という弱さを受け入れるわけにはいかないのです』という指摘を知ると、なんとも言えない気持ちになる。それだけ、「持たざる者」に対して、過酷な現実があるということなのだろう。

 厳しい人と、優しい人では、何が違うのだろうか。
 推測になってしまうけれど、厳しい環境で傷ついたとしても、優しくなる人は、どこかの時点で、誰かに、きちんと労られたのかもしれない。
 それは、その直後の場合もあるだろうし、それから何年も経ってからでも、適切に、誰かに傷が癒えるきっかけを与えられたり、自分で、そんな機会を作れたのか、その辺りは分からないけれど、優しくなれる人は、傷ついたままではないはずだ。
 きちんと労られること。適切に評価されること。人として無条件に大事にされること。

 そんな本当ならば当たり前にあっていいはずの機会が、今の社会にも少なすぎるから、厳しい環境にいた人が、優しくなれる確率が低いのかもしれない。
 推測と想像がほとんどの、仮説に過ぎないのだけど、誰もが大事にされる社会を目指すのは、理想ではなくて、ただの目標になればいいのに、とは思う。

(『「過酷な状況」を生き抜いた人が、時として、「異常なほど苛烈」になってしまう理由を考える』
より)。

 かつて、未熟とはいえ、こんなことを考えたのは、今でも有効だと思う。

教育の機会

 社会で「優しくて、優秀な人」が多くなれば、明らかに社会をいい方向に導いてくれると思うので、1人でも多く「優しくて、優秀な人」生み出そうとするならば、過酷な現実にいる人間に対しても、豊かで必要十分な教育の機会が与えられれば、その可能性は高まる。

 それは、日本で言えば、小学生や中学生の義務教育から、行われなくてはならないだろう。

 そして、差別や貧困で深く傷ついたとしても、そうした教育を受けられることによって、自分が大事にされた、という経験を得られれば、人の痛みを知る優しい人間に変わっていく可能性が出てくる。その上で、必要に応じて、能力に応じた教育の機会が与えられることによって、優秀に育っていく確率も高まる。

 今まで、そうしたことは十分におこなわれてこなかった。

 そして、当然だけど、優秀な人間はどこにいるのか分からない。
 どんな環境にいても、優秀な人間は、その優秀さを発揮するような環境を与えるべきだし、義務教育段階で優秀さを発揮した人間には、経済的に恵まれない環境の場合には、無償で、さらに高等な教育の機会を与え、そうした自分が大事にされる経験も含めて、そこから優秀で優しい人間が育つ可能性を、今からでも高めるべきだと思う。

経験する年代

 貴族的な人間が、知らないことによって想像力に欠け、悪意がないとしても、気がついたら、冷たい人間になっていることを防ぐには、どうしたらいいのだろうか。

 基本的には、環境に恵まれている人間は、優秀さがあった場合には、それが十分に育つ可能性が高くなる。

 だとすれば、優しさを持つまでいかないとしても、無知であることから冷たさが身につく前に、なんとか出来るとすれば、こうした話と関係あるかもしれない。

 この書籍の中で、アウシュビッツのガイドの話が出てくる。

案内してくれたガイドの中谷さんによれば、15歳くらいからアウシュビッツを見学するように、ヨーロッパでは勧められているそうです。それより幼いと、トラウマというか、衝撃を受け止められなくなる可能性があるからです。そして、25歳までには訪ねるべきだとも言われているそうです。それ以上になると、偏見なく、公平な目で受け止めることが難しくなるから、と仰ってました。 

(「人間ってなんだ」より)

 私自身も、アウシュビッツに行った経験もないから、偉そうに言うこともできないけれど、確かに「見学」とはいっても、それが歴史的な事実としての重さが重いほど、「見学」自体に負荷がかかるし、でも、その負荷が重いほど、その人への影響も強くなってくるのも事実だと思う。

 だから、ヨーロッパで、その「見学」に適した年齢として「15〜25歳」というデータが出ていて、そのことが推奨されているという事実に、ある種の成熟も感じるものの、このことは、特に「恵まれた階級」の人間にとっては、ただ優秀であるだけではなく、優しく優秀な人間になるためには、重要なことだと思えた。

 だとすれば、恵まれた環境で、優秀になり得た人間には、15歳から25歳という、高校、大学の期間をどうするのか、が大事になってくるはずだ。

ダークツーリズム

人類の悲劇を巡る「ダークツーリズム」が世界的に人気だ。どんな地域にも災害、病気、差別、公害といった影の側面があるが、日本では、それらの舞台を気軽に観光することへの抵抗感が強い。しかし、本当の悲劇は、歴史そのものが忘れ去られることだ。経済発展の裏で多数の非公認遊郭が存在した小樽、波照間島から強制移住させられた人々がマラリアで大量死した西表島、地元企業チッソの廃液で発生した水俣病によって死の海を抱える町という偏見に苦しんだ熊本・水俣など、代表的な日本のダークツーリズムポイントを紹介。

(「ダークツーリズム」書籍紹介より)

「ダークツーリズム」という名称に関しては、今も議論はあるものの、当然だけど、人類の悲劇に関する場所は、日本にもある。

 自分も、数少なくしか訪れていないので、やはり、立派そうなことは言えないけれど、こうした遺産があるのだから、「恵まれた階級」の人間ほど「見学」するべきだと思う。

 それも、アウシュビッツのガイドの人が言っているように「15歳〜25歳」の間に行った方がいい。もちろん、その経験が、その人を変えたり、影響を与えるとは限らない。だけど、その後に、その人が、少なくとも「人の痛みを想像できる」ようになる確率が高まるはずだ。

 そう考えると、16歳から18歳までは、高校生の年代であって、恵まれた階級であれば、基本的には進学をしていて、特に(この時点で)優秀な人間が集まるような高校では、厳しい環境にいる人間と、ボランディアでも、短期間でも、内申書のためでもいいので、接する機会を作るべきだと思う。

(この発想自体が、「厳しい環境にいる人たち」が「教育素材」のように扱われるような、失礼な行いにつながる可能性もあるにしても、そうならないように、そうしたボランティアが、きちんと行われるようなシステムを整えることも忘れてはいけないはずだ)。

 それとともに、修学旅行のような習慣が、これからも生き残っているのだとすれば、優秀な高校ほど、ダークツーリズムにすべきではないだろうか。

 その理由は、恵まれた環境に生まれ育ち、優秀になる機会は与えられているのだから、そこに優しくなれるチャンスも増やすことで、やはり、社会の大きなプラスになり得る「優秀で優しい人」が1人でも多く育っていく可能性が高まるからだ。

多様性

 そして、他人への想像力を高めるためには、当然だけど、なるべく多様な人と出会っていた方がいい。その方が、優しい人になれる確率は高まるはずだ。

 そう考えると、特に都心部の進学校に男子校が目立つのは、その時の受験だけを考えたら、「正解」なのかもしれないが、今後、地道に少しでも浮上のきっかけを作るために、国を挙げて「優しくて、優秀な人間」を1人でも増やそうとするならば、この大事な年代に、男女別学は不正解だと思う。

慶応、筑波大駒場、開成、麻布、東海、ラ・サール、武蔵など政治家の出身高校として上位を占める高校には男子校が多い。これが、日本の政治家に女性が少ない理由の一つだともいえる。

(「社会実情データ図録」より)

(共学は、現在の日本だと、社会の縮図のように、男尊女卑的な構造になるから、女子の自立を阻害する、といった見方も、読んだことがあるのですが、そこまで考える能力は、まだありません。すみません。今回は、このことは脇に置かせてください)。

 
 さらに、政治家の子息のように、社会的に力を保つ可能性が高い2世や3世は、有名私立大の幼稚舎から進学していく、といったことも少なくないようだけど、そうした同質な世界で生きていくのは、全く違う他人への想像力を育てる機会を逸する可能性もある。

 だから、恵まれた環境で、学力的に優秀になれる機会があるとすれば、もっと勉強をして、世界ランキングベスト20以内の海外の大学に進んで欲しい。

 こうした大学に進学すれば、それまでに味わったことのない少数派の立場になることも十分に考えられるし、世界中の「恵まれた階級」という共通点はあるかもしれないが、日本国内の大学にいるよりは、いやでも人間の多様性に直面できる。

 さらに、政治家や財界の2世や3世であれば、ここで知り合った人間が、のちにそれぞれの国を代表する政治家やビジネスエリートになる可能性も高い。そうした人間関係があれば、これからの日本の政治家や企業人として、それまでよりも有利になるという実質的なプラスもあるだろう。

 その経験を、「15歳〜25歳」の間にできるのだから、優秀さに、優しさも加えることができるかもしれない。

「優秀で、優しい人」が、1人でも多く育つ方法

 基本的には、現在、厳しい環境にいる子どもたちには、豊かで必要十分な教育の機会を与え、恵まれた環境にいる子どもたちには、少なくとも若い時は優秀である確率が高いのだから、他の人間を知り、想像力を育む機会を与えるべきだと思う。

 その両面の介入をすることで初めて、本当の意味で未来をつくることに貢献する「優しくて、優秀な人間」が育つ確率が、少しでも上がっていくはずだ。

 あまり使いたくない言葉だけど、国益を考えても、(詳細はさらに検討が必要だとしても)すぐにでも始めた方がいい対策であると思う。




(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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