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「ウイズコロナ」とは、どんな「社会」のことなのか?を、改めて考える。

 新型コロナウイルスへの警戒心が、かなり薄れてきたような気がする。

 それは、これだけ感染者が増えると、身近な人や、自分自身が感染することもあって、場合によっては、あまり症状が出ないことさえあるから、実感として怖さが薄れてきた、ということも大きいと思う。

 コロナ感染した時の「療養期間」も短縮された。
 社会は、だんだん「ウイズコロナ」の時代に移ってきているようだ。

 だけど、それは考え過ぎかもしれないけれど、感染しても気にしない、という方向へ進んでいるだけ、のように感じてしまう。

 今のまま、「ウイズコロナ」の社会に移ってもいいのだろうか。

死亡者数

新型コロナウイルス感染による国内の死者は1日、新たに306人確認され、累計の死者は4万人を超えて4万248人となった。第7波では、感染者の急増に伴って死者数も過去最多水準となっており、4か月足らずで1万人増えた。

 これは2022年9月に入ってすぐのニュースで、このことは明らかに大変な状況なのに、そんなに大きな問題になっていないように思う。

厚生労働省によると、死者(7月6日~8月23日)の年代別では、80歳代が最多の40・5%で、90歳以上が33・2%と、80歳代以上が全体の74%を占めている。かつては肺炎で死亡するケースが多かったが、オミクロン株では腎臓や心臓、呼吸器などに持病を抱える人が、感染で持病を悪化させて亡くなる事例が目立つという。

 同じ記事の中でも触れられているが、「80歳代以上が全体の74%を占めている」ことが、もしかしたら、これだけの死亡者数は大災害のレベルなのに、それが、本当に深刻なことと認識されていないように思う。

 このまま「ウイズコロナ」として、さらに感染拡大予防に関して緩和したとすれば、この4ヶ月で1万人のペースで、死者数が増えていく可能性もある。そうなると、1年で3万人が亡くなっていくかもしれない。

 そんな「ウイズコロナ」の社会に、そのまま移行していいのだろうか。

パンデミックの倫理学

 2020年からのコロナ禍で、日本の政策にしっかりした「方針」があるとは思えなかった。

 この書籍の中で、2020年のコロナ禍「初期」の政府の方針が定まらない様子を、「耳を傾けすぎる」と表現していて、最初は意外に思えたのだけど、それは、時間が経つほど、悪い意味で本当だと思うようになった。

 どちらにしても未知のウイルスであるのだから、そんなに落ち着いた「正解」があるわけもない。
 
 そして、医療の専門家は、感染症拡大予防に関しての提案をするとしても、その上で、判断をするのが政治家の役割のはずだと思う。
 その時に「判断の基準」が公正であれば、もし、その結果が例えうまくいかない場合でも、憤りも不安もそれほど強く感じないはずなのだけど、この2年半ほどの間に、そうしたフェアな「判断の基準」を提示された記憶がないから、不安も怒りも小さくはならなかった。

パンデミック期には医療資源に対する需要は供給を大きく上回ることが予想されるので、医療サービスを受けられる人と受けられない人が出てくる事態が発生するかもしれない。誰が医療サービスを受けられ、誰が医療サービスを受けられないかをどうやって判断すればいいのか、そしてそのような判断の根拠となるルールとは何だろうか?この問いは究極的には誰が死に誰が生きるかの選択にも通じる。明らかに倫理的問題である。

 この本の著者は、2006年にWHOパンデミック対策のワーキンググループに参加したことがあり、当然だけど、このコロナ禍には、「倫理的な判断」が必要なはずなのだけど、そうした話を聞いた記憶がなかった。(自分が無知なだけなのだろうか)。

パンデミック対策の目的とは何か?
最も直観的な目的は「死亡者の数を最小化する」ことである。

感染症パンデミック対策では「救命数最大化の原則」と呼ぶことにしよう。

 こうした基本的な原則は、専門家会議でも、政府でも、議論され確認され周知されているのだろうか。もしかしたら、「一人でも多く救う」ことは常識ではないか、といった暗黙の了解で言葉にすることなく、ここまで対応されてきていないだろうか。

 そうであれば、きちんと言葉にして、改めてでも、広く伝えられるべきことだと思う。

トリアージと年齢

 たとえば、一時期話題になっていた年齢の問題がある。

 同じように重症化し、人工呼吸器や、ECMOが1つしかない場合、高齢者と若者のどちらを優先させるべきか?

 その場合に備えて、高齢者に対して、そんなときは、より若い人に治療機会を譲るかどうか。その意志を前もって示すべきではないか。そんな話題が議論されていたことがあった。

実を言えば、希少な医療資源の分配というコンテキストでは、高齢者差別には倫理的には何の問題もないという考えが根強いのだ。 

「高齢者差別」と批判される判断が倫理的に正当化されるという考えが存在する。その考えはごく単純な事実に基づく。その事実とは、誰もが例外なく歳をとるということである。いま二〇歳のBも時が経てば七〇歳になり、そのときに年齢差と同じような状況に置かれるとしたら、七〇歳になったBよりも若い人の救命が優先される。つまり、誰もが例外なく同じように「差別」される可能性があるという意味で、生存年数最大化もフェア・イニングス論もすべての人に公平であり、高齢者に一貫して低い優先順位を与えることに倫理的問題は一切ない。

 当初から、こうした倫理学の専門家を含めて検討すれば、このような前提を共有できて、説明もできたかもしれない。

 そうであれば、高齢者の方々に、感染する前から、若い患者に譲る、といった自己決定をさせる必要もなかったと言える。これは、新型コロナウイルスの感染拡大の不安の中、特に高齢者の方々には、必要以上に精神的な負担になったとすれば、配慮が足りない、という見方も可能になる。

 そして、それは、高齢者の命はあまり大事にされなくていい、という拡大解釈が出始めた頃ではなかっただろうか。

悪影響の予防

ただ、「高齢者の死はさほど悪くない」から「高齢者の生命などどうなってもいい」を早合点する人たちが出てくることは容易に予想できる。倫理的に問題のある悪影響とは、「高齢者の生命などどうなってもいい」と早合点する人々が高齢者の生活の質をなおざりにする状況のことである。より具体的には、高齢者への虐待やネグレクト、高齢者医療および高齢者施設の予算削減、介護士の労働条件悪化などである。一つしかない人工呼吸器を一〇〇歳の患者ではなく二〇歳の患者に与えるべきだという判断と、高齢者と介護士を不衛生かつ劣悪な環境に押し留めてよいという考えとは、まったく無関係なのである。

(「パンデミックの倫理学」より)

 本当に今はこの傾向と無縁だろうか。
 高齢者は亡くなっても仕方がない、という空気になっていないだろうか。

 誰でも長く生きれば、高齢者になる。
 その時、大事に扱われなくてもいいのだろうか。

希少な医療資源の分配で若年層を高齢者よりも優先することに倫理的な問題はないが、倫理的な悪影響が発生することが容易に予想できるため、その悪影響を最小化するよう細心の注意が払われなければならない、ということである。(中略)若年者優先の悪影響を最小化するには、生存年数最大化を適用する領域をなるべく少なくし、救命数最大化を基本原則とすべきである。

(「パンデミックの倫理学」より)

 本当に、細心の注意は払われているのだろうか。

 まず、救命数最大化……「助けられる人は、一人でも多く助ける」は優先されているのだろうか。

 生存年数最大化……「二人のうち一人しか助けられない時。より若い人間を優先する」が、いつの間にか、拡大解釈されていないのだろうか。

入院時の判断

 例えば、2022年現在、新型コロナウイルスに感染した際、若年者と高齢者が同時に感染した際、どのような対応がされているのだろうか。

 現在までの事実として、高齢者ほど、軽症と思われていたのが、急激に重症化すると言われているし、肺炎で亡くならないとしても、持病がある場合は、その持病が悪化して死亡することが多いという報道がされている、と記憶している。

 つまり感染した場合、死亡リスクは、高齢者の方が圧倒的に高い。

 そうであれば、若年者と高齢者が同時に新型コロナウイルスに感染した場合、どちらも軽症、もしくは無症状であれば、重症化した場合の対応ができる病院に入院するのは、高齢者を優先した方が、「救命数最大化」につながると思う。

 本当に、そうした「合理的」で「倫理的」な対応がされているのだろうか。

 もし、そうなっていなくて、この場合でも拡大解釈された「生存年数最大化」として、若年者の入院が優先されているとすれば、すでに、「高齢者の命などどうなってもいい」といった悪影響が始まってしまっている、ということになる。

 パンデミック対策の目的とは何か?
 最も直観的な目的は「死亡者の数を最小化する」ことである。

(「パンデミックの倫理学」より)

 この基本の再確認を徹底し、方針をあらためて決め、そのことに責任を持ち、国民に説明をするのは、政府の役割であるはずだ。

 少し「第7波」が落ち着いたものの、冬に向かって「第8波」が来ると予想されている時にこそ、倫理的な問題も含めて検討することが、パンデミック対策への信頼感の回復につながると思う。

「ウイズコロナ」

「ウイズコロナ」とは、コロナ感染が拡大し出した頃には、すでに言われていた記憶がある。場合によっては、「コロナはただの風邪」といった言葉が、選挙ポスターにのっていたことまである。

 感染拡大から少し時間が経つと、ワクチンが登場する前から、新型コロナウイルスに感染しても、若くて健康であれば、ほとんど軽症で済む、ということがデータで明確になっていた。

 だから、もし、自分が若くて健康で体力もあり、自分の家族も、友人も、職場も、日常で接する人たちが同様であれば、その頃から、大きな声で主張するかどうは別としても「コロナはただの風邪」と思っていたかもしれない。

 それは、ある意味では偏った、というか、ある種の恵まれた人たちの「思想」でもあったとは思うのだけど、ワクチン接種も進み、いったん収束するかのように感染が減っていった時期をすぎて、2022年に入ってから、それこそ爆発的に感染が再拡大し、夏を迎える頃には、それでも、これまでのように行動制限がかからないこともあって、再び、「ウイズコロナ」という言葉が言われ出した。

 それは、「コロナはただの風邪」と言われた頃の「ウイズコロナ」とは違って、新型コロナウイルスのことが、全く未知のウイルスではなくなった後に、ささやかれ始め、静かだけど大きい声になっているように思う。

厚生労働省によると、死者(7月6日~8月23日)の年代別では、80歳代が最多の40・5%で、90歳以上が33・2%と、80歳代以上が全体の74%を占めている。かつては肺炎で死亡するケースが多かったが、オミクロン株では腎臓や心臓、呼吸器などに持病を抱える人が、感染で持病を悪化させて亡くなる事例が目立つという。

 その根拠となっているのが、前出した記事の中にあったように、亡くなるのが高齢者。それも、感染で持病を悪化する、というような見られ方で、他の多数にはそれほどの影響がない、という現状だと思う。

 だけど、この風潮は、倫理学の面から見た時に、「高齢者の命」を軽く見るような悪影響で語られる「ウイズコロナ」のような印象まである。

高齢者の命

 80歳を過ぎた人が感染して亡くなっても仕方がない。

 今は、そんな空気と共に「ウイズコロナ」が語られているように思うので、「ウイズコロナ」には、まだ抵抗感がある。

 本当に、高齢者は亡くなっても仕方がないのだろうか。

 自分が、身の回りに高齢者の多い環境にいるから、そういう高齢者の見殺しをするような発想により抵抗感があるという、考えの偏りもあると思う。

 ただ、80になっても、90を超えても、まだ何年も元気で生きられる人が、コロナ感染により重症化し、亡くなることは、やはり避けたいことのように感じる。もし、全体の方針として、もっと医療体制が整えていれば、助けられた高齢者は、本当にいないのだろうか。

 もちろん、災害のような感染症では、理不尽なことで命を落とす人をゼロにするのは不可能だと思う。

 だけど、現場の方達は、ベストを尽くす以上の働きをされているとは思うのだけど、国全体の政策として、本当に、一人でも多く助けるための方針を徹底した上での現在の状況なのか、やっぱり疑問がある。

第7波では、感染者の急増に伴って死者数も過去最多水準となっており、4か月足らずで1万人増えた。

 何度も繰り返して申し訳ないのだけど、死者数が多くても、その大部分が高齢者が多いからと、このペースを容認するのが、もしも「ウイズコロナ」だとしたら、それに対しては、やはり強い抵抗感がある。

 感染症は、新型コロナが収束したとしても、また新しくやってくる、というのは確実らしい。いつか来る感染症が、高齢者だけが重症化するわけでもなく、様々な年齢層に致死率が高い感染症の時のためにも、救える人は救えるという体制を、本当に作り上げていく意味はあると思うが、どうだろうか。

感染しても安心して医療を受けられる社会

 新型コロナウイルスの感染に対して、現場でずっと診察と治療を続けてきた感染症内科の医師が、こうしたことを伝えてくれている。

 With コロナってね、「誰もが感染しても仕方ないよね」っていう意味じゃなくて 「感染した人がいつでもどこでも安心して医療を受けられる社会」って意味

誰もが感染するから仕方ないよね。って言えるのは医療現場が潤沢になったときです。病気の理解も 進んでいないし、受け入れ拒否や制限をしなければいけない時点で破綻してます。

  インフルエンザのほうが患者数が多かったのに対応できたのは、どこにでも受け皿があったからです。 患者数増える覚悟があるなら、受け皿増やす覚悟もしましょうよ。そういう社会にしましょうよ。 頑張ってるクリニックや病院だけに押し付ける付け焼き刃もやめようよ。 マスク無しでどんちゃん騒ぎの普通の社会に戻したいんでしょ。 治療薬もあるんだから、逆に言えば1億人が感染しても、その受け皿があればウィズコロナですよ。

  とても納得がいくことを、現場の専門家が言っているのは、どこかホッとすることでもあるし、とても大変な思いをしているはずなのに、こうした「一人でも多く救う」発想に揺らぎがない医師がいることに敬意も感じる。

 いつ誰が新型コロナウイルスになっても、適切な治療が素早く受けられる。

 それだけの医療拡充か、医療拡大のためにどれだけの予算がかかるのか。どのようなシステムや体制の変更が必要なのかは、部外者の素人には分かるはずもない。

 だけど、無理とは感じつつも、例えば、この記事の中の「新型コロナを普通の病気として扱う」という表現が、「一億人が感染してもその受け皿がある」といった状況を目指している、という意味だと思いたい気持ちがある。

 その対策へ、覚悟をもって選択し、進むことができるようなことがあったら、その時は、専門家にも、政府に対しても、これまでの不満や不安はあるとしても、信頼感は確実に増大するはずだ。

 
 感染症の記憶は他の災害と比べても、なぜか、より早く忘れがちだけれども、そんな体制ができれば、次にどんな感染症が来ても、おそらくは、世界でも死亡者が最も少ない国になるはずだし、そうした「人を大事にする体制」は、他のことにもいい意味で影響が広がると思う。

 あまりにも理想論に聞こえるとしたら、それは、もしかしたら、基本的には冷たい社会だから、という理由かもしれない。




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