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人類が滅びるとしたら、どこで選択を間違えたのか?を考える

 人類滅亡、という言葉は、これまで数限りなく聞いてきた気もしますし、それをテーマとした小説や漫画や映画なども、おそらくずいぶんと接してきたと思います。

 だから、どこかで、滅びるんだ、というような気持ちもあったのですが、その反面、これだけの文明を作り上げた人類は、いろいろな過ちを重ねながらも、もしかしたら、思った以上に生き延びるのかもしれない、とも思っています。

 遠い未来には、太陽がなくなるらしく、それは五十億年後といわれています。そして、地球も消滅するらしいですが、その時はすでに、違う惑星に人類はいるのかもしれない、といった気持ちもあります。

 たとえば、弥勒菩薩が登場するのは、お釈迦様がいなくなったあと、五十六億年あと、といったことも言われていて、そんなあまりにも現実的でない数字も、太陽の寿命が五十億年といったことを知ると、そのあとも、人類がいる可能性を示しているのではないか、と思ったりもします。

 だから、あまりいろいろなことを知らず、目の前のことに振り回されていて、今回のコロナ禍も、これまでにないことだとは思いながらも、これで人類が滅ぶ、というようなことは、自分でも、考えにくいようです。

 これだけ人類滅亡というイメージに接していながら、それほど根拠なく、人類はとんでもなく長く生きていくのではないか、と思っています。私は子供もいませんが、もしも、子供がいらっしゃる方々にとっては、もしかしたら、人類が存続することへの確信は、もっと強いのかもしれない、と想像したりもします。

 普段は、人類が滅ぶ話はしませんし、こうしたテーマは大き過ぎて、自分が考えるには荷が重すぎるのも自覚はしています。

 でも、そうしたことを、それまでよりも、かなり解像度をあげて、考えられるようになったのは、この本を読んでからでした。


「人類が永遠に続くのではないとしたら」 加藤典洋 

【福島第一原発 1200億円保険打ち切り】

 これについて、原発は人類が責任を持つには、何かを超えている、といった著者の指摘があって、そして、結果的には人類は永遠には続かないのではないか、といった考えへと続いていくのですが、個人的には、とても納得がいきました。

 私は、たぶん、漠然と、地球の未来に関しては、いわば「人類の叡智」ともいうべきものが発動されて、私たちを安寧な結論へと導いてくれるだろうと心のどこかで思っていたのである。

 著者は、「それが幻想に過ぎないと分かった」といった思考の流れを描くのですが、読んだ後は、私自身も、以前とは違って、人類滅亡を、かなりリアルに、それを前提として考えられるようになりました。

人類が滅びるとして、どこで選択を間違ったのだろうか?

 すでに自分にとっては、荷が重いとは思いますし、こうしたことに関しては、過去の偉大な人たちがさんざん思考を重ねてきて、単純に私が無知なだけで知らないままに、書いているだけかもしれません。さらには、加藤典洋氏の著作の影響を受け過ぎている自覚もありますが、やはり、核に関する選択で、人類の滅亡は決まってしまったと思っています。

 核を開発し、それを実用化した最初の形が「原子爆弾」で、それを投下されたのが日本だったのですが、どうして開発したのか、といった話の時に、第2次世界大戦の際に、ナチスドイツが原子爆弾を製造していると噂されていたので、それに先んじて、連合国側が開発しなくてはいけなかった、みたいな説をどこかで読んだ記憶があります。

 ただ、どこかで、核開発を、止めることができた可能性は、本当になかったのでしょうか。

 開発している科学者が、「試みたのですが、できませんでした」といったことを、うそでもいいので言い出して、核開発を、原子爆弾を、この世に誕生させないことは、本当にできなかったのだろうか、と思います。

 いろいろな理由もあって、個人ではどうしようもなくて、こんな時間的にも距離的にも立場的にも、とても遠いところから、勝手に言っているだけでは仕方がないのも分かります。

 だけど、この核というものが人類では制御できないことを、開発しようとする研究者も知っていたはずです。その一方で、科学者として、これまでなかったものを作りたい気持ちも、当然あったはずで、それがあったから、開発し、原子爆弾が世界に出現してしまった。これは、単純すぎる見方だとも思いますが、それは、原子力発電所というものにもなって、核はいろいろな形で世界に広がっていった、ということは、とても粗い知識ですが、私のような、それほどものを知らない人間でも知っています。

 もし、「人類存続ゲーム」というものがあったとして、いろいろな分岐点があり、その大きな一つに「核開発をしますか?しませんか?」があると思います。その時に、「核開発はできるけど、しない」という選択をしなかった時点で、すでに、「人類滅亡」が決まってしまったのではないでしょうか。

 だから、これから先、いろいろな努力や工夫をしたとしても、核をすべて地球上から消滅させない限り、(もちろん原子力発電所も含めて)、そのゲームの結果はすでに決まっているように思います。

「恐竜存続」のための分岐点

 この推測があたるかどうかも確かめることはできませんが、でも、恐竜でも1億6000万年以上生きていた、ということを知ると、人類は、初期猿人からでも、まだ約700万年らしいので、これから20倍位以上の時間がたたないと、恐竜の生存期間には追いつけないみたいです。

 一度滅びてしまった種へのイメージは、なぜか、その生存期間も、その後の地球上の支配をしているといっていい人類から見ると、短く感じるもののようです。

 恐竜にとっても、分岐点があって、それはもしかしたら意志の力で選んだものでなかったとしても、たとえば「身長5メートル以上になるか?ならないか?」といった選択があり、そこで「5メートル以上になる」を選んだ時点で、のちに小惑星の激突によって生じる環境変化に対応できずに、滅亡することが決定していたのかもしれません。

 ただ、本当のことは分かりませんが、おそらく恐竜には、自らの意志で選択できたわけではないでしょうから、問題は、人類が「できるけど、しない」という選択をしなかったことです。

「できるけど、しない」という選択の重要性

 もう人類は滅びるのは確定していたとしても、それでも自分も含めて、人類はまだ生きていきます。その時間の中で、少しでも滅亡の時期を遅らせるとすれば、この「できるけど、しない」は重要なことだと思います。

 「できるけど、しない」は、ある意味での我慢であって、それは、どうして「しない」かと言えば、たとえば核であれば、人類にとってプラスよりもマイナスのほうがはるかに大きくなる可能性が高いから、「しない」を貫く、ということで、それは「正しさ」(その基準は難しいとしても)に従う、ということだと思います。


 おそらく、これから先、「アフターコロナ」といわれる時代に、「できるけど、しない」は、いろいろな意味で大事になっていくような気がします。

 自分は感染しても重症化しないから今まで通りに動けるけれど、外出を控える。

 それは難しいかもしれないけれど、そんなことを今は要求されていて、その「できるけど、しない」が、今のところは「正しい」行動の一つであって、それも、強要されるのでもなく、相互監視でもなく、自ら選ぶことができて、それを後押しするようなシステムが作られるようなことがあれば、少し未来は変わってくるような気がします。

「できるけど、(正しくないから)しない」という我慢が、滅亡が決定したとしても、終わりのある未来が、少しでも人類が自由になる可能性を開いてくれるように思います。


 急ですみませんが、これで今回は終わりです。

 大きなテーマで、あまりにも中途半端なところで、これ以上進めなくなりましたが、もし、こうしたことをきっかけとして、さらに、もっと考えてくださる人がいらっしゃれば、幸いです。


  そういえば、以前書いた記事と、似たような結論になってしまいました。
  自分の思考の限界のようです。


(参考資料)


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「かっぱえびせんの全盛期」のことを考えたら、「歴史の不可逆性」に、改めて気がつきました。

読書感想 『21世紀の資本』 トマ・ピケティ 「200年分の事実」

「陰謀論」を、信じられなくなった理由


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