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読書感想 『21世紀の資本』 トマ・ピケティ 「200年分の事実」

 自分にとって、経済学は、遠かった。
 経済と無縁で暮らしていくことも、現代では不可能なので、そうやって、分からないままな事に、後ろめたさと、劣等感と、何かを損しているのではないか、というような浅ましい気持ちも、ずっとあった。

 同時に、「経済」をなめらかな口調で語る人たちへの、不信感も、ずっとあった。言葉に責任をとらない印象もあったせいだった。ただ、それは、自分の屈折した劣等感も関係しているから、そこで、またもやもやして、考えを止めてしまいがちだった。

経済用語への不信感

 2000年代の後半に「リーマンショック」があった時に、経済には素人に過ぎないのだけど、もう資本主義が終わったのではないか、と思ってしまった。それは、「金融工学」などという言葉を聞くようになり、知識的には、自分は無知で語る資格がないかもしれないが、感覚的には、これまでで、最大のうさん臭さがあるように思っていたからだった。

「金融工学」に対して、勝手にこんな印象を持っていた。その理論の組み立て方が、100階建てのビルを建てるのに、2階部分までを作って見せて、だから、100階まででも大丈夫ですよ、と語っているように見えていた。設計と実際にはズレがあるだろうし、それをなんとかしていくのが、現場の力だろう、とも勝手に思っているが、「金融工学」には、現場の力はなく、ただ理論だけがあると感じていた。こうしたことを、私のような素人がうっかり言うと、膨大な難しい言葉での非難はすぐやってきそうだけど、リーマンショックは、その幻の土台が崩れたように思っていた。

 だが、当然だけど、資本主義がそう簡単に終わるわけもなく、経済は回復もしていった。その時間の中で、実体経済、などという言葉が、私のような経済に疎い上に貧乏な人間にも聞こえてくるようになった。その反対語は、いろいろ言われているようだけど、個人的には、実体がない、のだから、その反対の概念は、数学でいえば、「虚数」に近い発想ではないか、と感じていた。また、形のないものを高く積み上げたあとに、「〇〇ショック」が起こるような不安がふくらみ、ひっそりとこわさを感じていた。


「21世紀の資本」

 この本が話題になっていたのは、そんな怖さを感じていた頃だった。
 経済学は相変わらず遠かったのだけど、その著者の研究方法に興味が持てた。
 過去、200年以上の資料を分析し、そのことによって「資本主義」を捉え直す、みたいな言われ方をされていた。私が無知なだけかもしれないが、そんな、膨大な事実に基づいて、研究をしようとした経済学者を知らなかった。

 話題になったことで、この本に関する解説本みたいなものが、瞬くまに発売されていた。こういう時は、何があっても、元の本を読んだほうがいいと思っていた。とはいっても、定価が5000円を超えているので、図書館に頼ることにした。予約をしたら、半年かかって、読むことができた。次の予約も入っていたので、2週間で728ページ。それだけの厚さのある経済の本を、自分にとっては、短期間で読んだのは初めてだった。

 本当に正確に読めたかどうかは、全く自信がない。
 だけど、始める前は、どうなるか分からなかったはずの研究を、基本を踏まえて、やりきったのは凄いと素直に思えた。
 この本のかなりの部分は、世界各国の、現在入手可能な限りの「課税記録」を集め、分析する過程を厳密に書くことで、ページが割かれているようだった。だから、それは、退屈でもあったのだけど、とてつもない手間なのは分かったし、もし、この研究の内容に疑問を持ったり、批判をしようと考えた人間がいた場合には、少なくとも同じような方法によって、再研究できるように、という開かれたルールに従っているようにも思えた。

研究されていなかった理由

 これだけ大規模なエビデンス(事実・証拠)に基づいた経済の研究はあったのだろうか。「資本主義」を研究できるだけの、200年分のデータは揃っているかもしれないが、それを集める手間や、分析にかかる時間を考えると、研究しようと決意するのも、大変なのではないか、と思った。ピケティは、研究の対象になっていなかった理由を、こう述べている。

 課税記録の歴史的・統計的な研究が学問的に無人の荒野になっているせいだ。経済学者にとってはあまりに歴史的だし、歴史学者にとってはあまりに経済的すぎるのだ。

 ただ、仮説はあったとしても、その検証の過程で、どうにもはっきりしないような、そんな結果になる可能性もあったと思うし、そうなったら、その研究の時間は、ある意味で、無駄になる可能性もあったのだから、他の誰もが手をつけなかったのかもしれない。

 クズネッツ以来、格差の動学に関する歴史的データを集めようという大きな試みがまったく行なわれてないことに気がついた。それなのに経済学業界は、どんな事実を説明すべきか知らないくせに、純粋理論的な結果を次々と吐き出し続けていた。

シンプルな不等式

 そして、ピケティの、15年かけたといわれている、その研究の成果は、とてもシンプルな不等式で象徴されるものになった。

 資本収益率が経済成長率よりも、大幅かつ永続に高いなら、(過去に蓄積された財産の)相続が(現地点で蓄積された冨である)貯蓄よりも優位を占めるのはほぼ避け難い。(中略)r>g という不等式はある意味で、過去が未来を蝕む傾向を持つということだ。

 「r」は資本収益率、「g」は経済成長率だというのだが、自分自身の理解としては、資本を持っていれば、どれだけ優れた労働よりも、圧倒的に経済的には有利、という結論にも思えた。だから、格差は、放っておけば無限に広がるということでもあり、それが、ここ何十年か、そう見えなかったのは、大規模な戦争があったせいだといったことを、200年以上のデータを元に明らかにしている。

 これが事実とすれば、アンフェアなシステムを、介入なしに、このままにしておけば、ただ格差が広がるだけで、未来に希望が持てるわけはない。

 いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。

 だから、著者が、「世界的な資本税(それも累進制)」の提言をしているのも、素直な思考の道筋によるものに思えてくる。

 自分で自分の税率を決める権利など誰にもない。自由貿易と経済統合でお金持ちになった個人が、隣人たちを犠牲にして利潤をかき集めるなどというのは正当ではない。それは窃盗以外の何物でもない。

 この著者が、思想的な部分での批判がされていたのを、2014年の年末から、2015年の春までの半年間、図書館での予約を待っている間に、そんなに関心がない自分でも知るようになったのだけど、この本を読むと、思想に基づいた発想ではなく、あくまでも、「200年分の事実」に背中を押された言葉に思えてくる。

 だから、本文の最後は、こんな言葉で締め括られている。

 特にあらゆる市民たちは、お金やその計測、それを取り巻く事実とその歴史に、真剣な興味を抱くべきだと思うのだ。お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかりと守ろうとする。数字との取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことなど、まずあり得ないのだ。




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