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「かっぱえびせんの全盛期」のことを考えたら、「歴史の不可逆性」に、改めて気がつきました。

 久しぶりにスーパーの棚で「かっぱえびせん」が目に入って、「期間限定 桜えび」と書いてあって、当たり前だけど、時代に合わせていろいろなことをしているんだと思い、なつかしさも含めて、久々に買った。

 本当に、何年かぶりに食べたのだけど、おいしかった。

 「やめられない、止まらない」をちょっと思い出した。少し細くなって、持ちやすく食べやすい。一時代のものだと思っていて、過去になっていたという感じだったのだけど、やっぱりおいしかった。

 妻が、そう言っていたが、私も、ほぼ似たような感想だった。


「昔の大スター理論」(仮)

 たとえば、芸能界の昔の大スター(この表現にすでに古さがあるけれど)が、どれだけスターだったのかを、自分より年上の人が語っていて、その大スターは、まだ芸能界にいて、大御所であるのは分かっていても、その「大スターの時代」は、すごかったんだろうな、と推測することしかできない。その「昔の大スター」を語る熱量に対して、ちょっとひくような気持ちになるのは、その時代の、そのときに生きている人にしか分からない気持ちを、共有できないからだと思う。

 だから、その「大スター」を語る人の熱量そのものから、自分が生きている時代のスターと比べて、その凄さの実感は想像するしかない。同時に、「昔の大スター」は、今よりも数が少なかった上に、プライバシーもかなり守られていたから、「スター性」の度合いは、比べられないくらい強かったから、現在のスターに、そこまでの「スター性」は、環境的に無理なのではないか、と思ったりもする。

 

 この、時代が共有されないと、その凄さが実感として理解されないのを、いったん「昔の大スター理論」(仮)と名付けて、このあとの話を続けます。
 そして、「昔の大スター」を語る人が、「今でいったら〇〇」と例えて、その実感を伝えるために工夫をしたとしても、そう言われた、より若い方は、決して納得しないのも「昔の大スター理論」(仮)に入る出来事かもしれません。


「かっぱえびせん」の全盛期

 かなり遠回りになった気もするけれど、「かっぱえびせん」を語るときには、こうした「昔の大スター理論」(仮)を含めて、考える必要が出てくると思う。

 自分が、「昔の大スター」を語るような年齢になってしまったし、「かっぱえびせん」は、かなり強引なのだけど、「昔の大スター」に近い存在だと思う。今は、もっとおいしいものがたくさんあるのを分かった上で、さらには、自分がもう、「かっぱえびせん」をあまり食べなくなっているのも理解したとしても、あのとき、「本当においしい」と思った記憶だけは、まだわりと明確にあることは、確認できる。

 
 子供の頃、今よりはるかに多く「かっぱえびせん」を食べていたはずだった。
 テレビでは、「やめられない、とまらない、カルビー、かっぱえびせん」というテレビCMが流れていて、思った以上に数多く目にして、耳にしていたようで、このCMの歌のメロディーを今でも覚えているし、こういうことを書くだけで、脳内再生が始まってしまう。

 サブリミナル効果は怪しくても、実際に数多く繰り返し見たり聞いたりさせれば、かなり強く印象に残るし、本当に記憶に刻まれるんだと、時間がたつとより思うようになる。だから、今でも「広告」というものが、信じられないくらい数多く繰り返されているのは、ある意味、理にかなっているのだとも思うが、「かっぱえびせん」は、CMの効果が、すごく成功した例なのかもしれない、と改めて思う。

 1969年からテレビCMが始まっていたらしいから、私も、それを見ていたはずだった。そして、テレビの物珍しさと、同時に貴重さも、今とは比べ物にならないくらいに高かったから、そこに映っているものに対しての集中力も高かった。だから、影響力も、今より大きかったと思う。

 「かっぱえびせん」を食べるたびに、「やめられない、とまらない、カルビー、かっぱえびせん」のメロディーが頭に流れていて、自分が、おいしいと思っていたのは確かなのだろうけど、その脳内再生のために、より「おいしい」という印象が強化されていたのかもしれない。
 だから、ただ「おいしい」というだけではなく、いわゆる「情報を食べさせた」という意味での、日本での本格的な始まりが「かっぱえびせん」ではないだろうか。

 そして、袋をあけて、食べ始めたら、その「やめられない、止まらない」の脳内再生が始まることで、同時に、もしかしたら、そのときに見ていたテレビでは実際にCMも流れていた可能性もあるから、さらに拍車がかかって、つい全部食べきることも多かった印象がある。

 そのことによって、湿る前に食べることにもつながるから、よりおいしい印象を保っていたのかもしれない。こうした「かっぱえびせん」のようなスナックの弱点の一つが、外気に触れて、少し時間がたつと、湿気を吸収して、ぱりぱりした食感が減って、おいしさも減少してしまうことだったからだ。

 だから、「やめられない、とまらない」というキャッチフレーズは、そういう弱点をカバーさせるための戦略でもあった、と思うのは、ちょっと考え過ぎかもしれないが、結果としては、そんな効果もあげていたと思う。

そうした様々な要素が重なったせいか、「かっぱえびせん」を食べているとき、食べて、口の中に入っている時から、すでに次の「かっぱえびせん」に手を伸ばしながら、「本当に、やめられない、とまらない、だよなあ」などと、子供でも感慨とともに思っていたことは、一度や二度ではなかった、と思う。

 だから、親に、お菓子を買う選択権を任されたときは、黙って「かっぱえびせん」を選んでいたような時期は確かにあったと思う。そして、食べるたびに、やめられない、とまらない、を繰り返していて、それもあったせいか、子供の頃は太っていた。


 だけど、その頃の「かっぱえびせん」は、「昔の大スター」だから、今も販売されているとしても、当時の、本当に「やめられない、とまらない」と心から思っていた気持ちを、そのままの形で知っているのは、その頃の時代を生きていた人間だけだと思う。同時に、その頃の人間でも、すでに、その「本当においしいと感じた気持ち」は、思い出の中だけにしかない。

 ありえなかった仮定として、もしも、「かっぱえびせん」を、あの頃から、ずっと同じように食べ続けていたら、そして、「かっぱえびせん」も、毎年のようにおいしくなって、何十年かたてば、一種のスタンダードとして今も主流だったかもしれない。

 だけど、これも不思議なことに、いつのまにか、あれだけおいしいと思っていた「かっぱえびせん」を、ほぼ一切食べなくなった。

「ポテトチップス」の時代

 「かっぱえびせん 」以降、いろいろなスナックが出てきて、一時期は、「仮面ライダースナック」という変則技もあって、これについては単に食べ物だけではない語られ方を、数多くされているのだけど、(そういえば、これもカルビーだった)、今回、改めて振り返って、思い出したのは「ポテトチップス」だった。

 単純化していえば、「ポテトチップス」が出てきて、それで「かっぱえびせん」を食べる機会は激減したと思う。

 というよりも「ポテトチップス」は、当たり前にありすぎて、思い出すよりも先に、たぶん、この1週間以内でも、普通に食べていると思う。しかも、おいしいと思っているから、買って食べているのは間違いないのだけど、あまりにも日常的になっていて、それほど印象に残っていない。だけど、冷静に考えると、いろいろとスナックを選ぶ時に、「あ、ポテチも買っておこう」、とほぼ無意識でカゴに入れている気がする。

 日本国内での量産販売に成功したのは、最初は湖池屋が「のり塩」味を1962年に発売し、さらにメジャーにしたのはカルビー(これもカルビーだった。なんだかすごい)といわれている。1975年に「うすしお味」が発売され、そこからは、たぶん、日本のスナック界(もしかしたら世界でも)は、「ポテトチップスの時代」が続いている。

いつのまにか「ポテチ」などと言われ、「カウチポテト」といった言葉の時にも採用されるのは、「ポテトチップス」であり、「かっぱえびせん 」の時と違うのは、一社だけのものではなくなったことだと思う。

 個人的には、カルビー、湖池屋を2トップとして、あとは、筒状の箱に入っている『成形ポテト』という流れも大きくなり、今は、どれだけの種類が発売されているのか分からないくらいになったと思っている。

 それだけ、深く日常に浸透し、高カロリーを指摘され、食べる時に罪悪感が伴うことも多くなったとはいえ、それを上回るほど、いつのまにか手にとってしまう魅力があると思う。

「歴史の不可逆性」

 自分にとっては、「かっぱえびせん」は、かつてのチャンピオンであったけれど、その座は「ポテトチップス」にうつり、その時代があまりにも長くなりすぎて、そのチャンピオン性そのものも印象が薄くなり、今は日常に深く食い込むように「ポテトチップス」は存在している。

 スナック界でも、「昔の大スター」は、いろいろと存在したのだけど、もしかしたら、「ポテトチップス」は歴史上でも、現役でも最強のままであって、スナック界の歴史は「ポテトチップス以降」では、まったく違ってしまって、そのことで、「ポテトチップス以前」の歴史への印象にさえ、影響を与えている可能性まである。

 もちろん、注意深く見て、考えていけば、「かっぱえびせんの時代」も、今の「ポテトチップス長期王座の時代」にも影響を与えていて、あの時代がなければ、今もないのも事実だけど、あまりにも「ポテトチップス」が強すぎて、それまでの歴史も覆ってしまっているような印象がある。

 少なくとも「ポテトチップス以降」に生まれた人間にとっては、「かっぱえびせん」の「あのおいしさ」については、「昔の大スター」と同様に、本当の意味で「ポテトチップス以前」の人間のように、味わうことはできない。それは、食生活が豊かになるという進歩であるのだから、喜ぶべきことだと思うのだけど、「かっぱえびせん 」の視線から振り返ると、そこに「歴史のとりかえしのつかなさ」を感じて、なんとも言えない気持ちにはなる。

 もし、「ポテトチップス」が登場しなかったら、今とまったく違うスナックの歴史があったかもしれないけれど、でも、存在してしまったら、それについては、取り返しがつかなくて、その前の歴史の印象さえ変えてしまう。そんな、大げさにいえば「歴史の不可逆性」について、「かっぱえびせん」の全盛期を振り返り、そこから歴史をたどり直すことで、改めて気がついたのが、今回の収穫かもしれない。


 だから、「かっぱえびせんの全盛期」について、その時の感情について「やめられない、とまらない」について、本当に共有できるとすれば、その時を知っている「かっぱえびせんの時代の人」しかいない。

 別に、こうした話題だけではないはずだけど、それで、中年以降になった方が、明らかに「同世代」である「クラス会」の開催が増えてくるのかもしれない。

 自分たちの「あの歴史」も「この歴史」も、確かに存在したことを、確かめ合うために。


リニューアル「1・5倍」の理論

 たとえば、通っていた幼稚園の広さは、大人になってから見ると、とても小さい。その大きさが1・5倍あったら、もしかしたら、自分が幼稚園の時と同じような広さに、大人になっても、感じるかもしれない。


 そんなことを思うようになったのは、小沢剛というアーティストが、回転遊具を1、5倍の大きさで作っている作品を見てからだった。それは、ノスタルジーの再現の方法に見えた。

  その時、同時に、ずいぶん前の、超合金のおもちゃのことを思い出した。昔、自分が子供時代の時の、「マジンガーZ」(1970年代の巨大ロボットアニメ)の超合金シリーズは高かった。もう30年近く前のことだが、欲しくても、買えない子供達は多いはずだった。自分自身は、家の経済事情に忖度し、高いものは買えないと思い込み過ぎて、だから欲しいと思わなかった。

 それから、ずいぶんたって、20世紀の終わり頃、新しく、「マジンガーZ」の超合金シリーズが売り出されて、予想以上に売れたと、そして、それを買ったのは「大人」が多かったと、深夜のバラエティ番組で見た記憶がある。その製品は、テレビ画面を通しただけでも、昔のものより明らかによくできていた。

 昔、欲しかった子供が、欲しかったという記憶を残したまま大人になる。その間に、少しは見る目も上がったりする。さらに、社会も明らかに豊かになった。だから、昔と同じ製品を出しても、その欲しかった子供が、成長し、大人になってから見ると、通っていた幼稚園がとても小さく見えるのと同じように、ああ、あの時は欲しかったけれど今見るとただのしょぼいおもちゃだ。に見える可能性も強い。だから、その誤差の分だけグレードアップしないと、その時の欲しかった気持ちを再現することもできない。

 その時に必要なのは、「1・5倍」だと、確信を持って思うようになったのは、その小沢剛の回転遊具の作品を見てからだった。
 モノによっては「1・5倍」大きくすることで、その時の気持ちまで再現できるかもしれないし、クオリティーを「1・5倍」あげることで、やっと、その昔の思いに近づけるかもしれない。

 だから、以前ヒットしたものであっても、もし、時代を超えてリニューアルするのであれば、「1・5倍」レベルをあげなければ、その時のファンには納得されないのだと、思っている。

2020年の「かっぱえびせん」

 今回、久しぶりに「かっぱえびせん」を食べて、素直においしいと思えたのだけど、ホームページなどで調べたら、実は、2020年から、「かっぱえびせん」はリニューアルされているのを知った。「1・5倍」の理論が働いているから、今回、おいしいと感じ、そして、全盛期のことまで考えようという動機に結びついた可能性もある。

 さらに、今、web限定CMでは、吉川晃司を起用し、吉川が曲まで作っている。そのことは、検索して初めて知ったのだが、その起用の理由として、かっぱえびせんは、1964年に広島で生まれ、吉川は1965年に広島で生まれた、ということらしかったが、何よりも吉川は、「ポテトチップ以前」の人間のはずだ。Web限定CMでは当然ながら、かっぱえびせんを食べるシーンもある。

 ポテトチップス以降の歴史は不可逆でもあるし、吉川晃司も、当然、ポテトチップも食べているはずだが、「ポテトチップス以前」の時代だけに存在した、かっぱえびせんの「やめられない、とまらない」おいしさも、その時代に生きていた人間だから、吉川も知っているはずだ。

 だから、「あのおいしさ」を知っていることも、今回の起用に結びついているのではないか、などと考えてしまうのは、カルビーの戦略に乗せられているだけなのかもしれない、とも思った。


 時間は常に容赦なく流れて、様々な出来事は起こり、それは取り返しがつかなくて、そのことによって歴史が作られて、何かがいったん変わったら、元には戻らない。スナック菓子の歴史でも、それが例外でなく、大げさかもしれないが、どんなことにも「歴史の不可逆性」があることに改めて気がついた。



(今回、かっぱえびせんを久しぶりに食べて、おいしいと思い、それで、全盛期のことを思い出し、書こうと思いました。私は、カルビーとは何の関係もありませんが、ただ、昔、本気で「やめられない、とまらない」記憶があったことを残さないと、消えてしまうと思って、書きました)。



(参考資料)





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