見出し画像

「反知性主義」と思われているのは、実は、「成績至上主義フォビア」ではないだろうか。

 すでに古い話に感じてしまうけれど、「学術会議問題」という出来事があった。

日本学術会議が推薦した新会員候補6人を菅義偉首相が任命しなかった問題

 まだ、任命拒否は続いているから、依然として現在の問題でもあり、解決されているとも言えないけれど、これに対しては、その当時は「学問への弾圧」という声も上がり、確かに、そうだとも思えた。

 同時に、思った以上に、世論が無関心だったのも覚えている。

 国民の関心は高いとは言えません。毎日新聞と社会調査研究センターが11月に実施した全国世論調査でも、任命拒否したことは「問題だ」と答えた人は37%にとどまりました。

 恥ずかしながら私も、「学術会議」という存在を理解していなかったけれど、任命拒否されたのに、「学術会議」自体への批判も高まっていたのは知っていた。。

 この動きに関して、「反知性主義」という言葉も見たのも、記憶している。

「反知性主義」

 頭がいいかもしれないけれど、難しそうなことを言われても分からない。
 何だかムカつく。

 何も知らない時には、「反知性主義」というものは、そんなことだと思っていのだけど、この書籍↓を読んで、アメリカにおいては、もっと歴史的な意味合いがあることを知った。

反知性主義がなぜアメリカで力をもつのか。それは、アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである。

ピューリタン社会はきわめて高度に知性的な社会であった。

 この「反知性主義」の著者は、インタビューで、こう語ってもいる。

 日本で反知性主義というと、「おまえは、知性がないな」と非難する言葉。相手をやっつける言葉として使われます。もちろん、そういう使われ方もまちがいではありませんが、一方で、反知性主義にはアメリカの長い歴史があります。

知性が権力と結びついて自己再生産をしていく。エリートというのは、インテリの連中がいい学校に行き、いい仕事について、いい収入を得るから、子どももいい教育を受けられるんですね。逆に、それに乗っかれない人は、いつまでも上昇できない。下降スパイラルになっていくんです。

反知性主義は、そういうものを批判しています。トランプもそうですが、権力と知性が手をつないで固定化することに対する反発が起きる。ということは、反知性主義が出てくると、社会が揺さぶられ、新しい価値観に向かうチャンスとなります。トランプは明らかに行き過ぎていますが、歴史的にはそういうこともあるんです。

(「Wedge  ONLINE」)

 これならば、自分も「反知性主義」に乗っかりたくもなるのは、「エリート層」にいないからだろうけれど、日本の場合は、「エリート」自身が、自分は「エリート」ではない、といった素振りを見せる形での「反知性主義」の意味合いの方が強いように思う。

茶髪の弁護士

 橋下徹氏は、大阪市長の時代に「文楽」を批判している。

 それは、すでに古い話になってしまっているものの、「文楽」が、わかる人にはわかるといった「教養」に関わるから、橋下氏は、より批判を強めている可能性もあった。他の場面では、「自称インテリ」という表現で、自分ではない誰かを非難しているツイートも何度も見た。
(私自身も文楽を見たことがないので、「教養」が必要なものであるという気持ちはある)。

 橋下氏自身は、弁護士という紛れもない「知的エリート」でありながらも、最初にテレビで見た時は「茶髪の弁護士」として有名になっていった。

 それは、社会的な「エリート」でありながらも、「エリート」に見えない姿をするという、広く考えたら「反知性主義」のような表現でもあったと思う。

 だけど、あの時に、黒髪のきちんとした、誰もが弁護士をイメージするような姿だったら、人気が出なかっただろうし、もしかしたら、その後の政治家への道にもつながらなかったかもしれない。

 だから、アメリカの「反知性主義」とは、少し違って、もしかしたら、これもすでに昔の表現になってしまうけれど、「ちょいワル」の方が「知的」よりも人気が出やすいのだと思う。

「学生時代を思い返してよ。女性にモテるのは、生徒会長などの優等生ばかりではない。型破りなヤンキーの人気が高かっただろう。
                         (「FRIDAY」デジタル)

成績のいい子

「学術会議」がそれほどの支持を受けなかったのは、実は知的エリートへの反発とは、少し違う意味合いがあるような気がする。「ちょいワル」の話題の時に出てきたように、学生時代の記憶に強く関係があるように思う。

 多くの人が幼いころの最初の差別として覚えているであろう経験は、先生から好かれるのは成績のいい子だったという事実だ。勉強のできる子は教師から信頼を受け、間違いを犯しても簡単に許される。少なくとも、バカにされたり侮辱を受けることはなく、名前を覚えられ、その生徒に先生の関心が寄せられる場面を目にしただろう。

 これは、日本と同様かそれ以上に「学歴社会」である韓国の著者の文章だけれど、似た光景は、日本でも見られるのではないだろうか。

 成績がトップクラスの人間と、そうでない生徒には、向ける表情と言葉の種類すら違っている教師。
 トラブルが教室内で発生すると、その時の「証言」でもっとも重視されるのは優等生の言葉だったこと。
 そして、これは本当は思った以上に少ない実例が、ひがみというバイアスでふくらんで多く感じている可能性はあるのだけど、成績が良く、学校内で大事に扱われることを背景に、他の人間に、嫌な振る舞いをする学生。

 どの小学校でも中学校でも高校でも大学でも、成績がいい人間は、ごく一部で、ずっとトップクラスでいる人間は、本当に少ない。そして、だいたいの人が、(自分自身ではなく)「先生から好かれている成績のいい子」の姿以上に、「成績によって生徒の扱いを変える教師」のことを、(それが実は想像以上に少ないかもしれないけれど)それでも少なくとも実在していることで、そうした教師への嫌悪感は、残っているのではないだろうか。

 私もそうだけれど、誰もが一人は、そんな教師を思い出すはずだ。

成績至上主義フォビア

知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが「知性犯」はいないのである。

 再び、前述した書籍からの引用になるけれど、例えば、成績がいい生徒の「知能」だけではなく「知性」も含めて、その上で「ひいき」をしたとすれば、ただ「成績がいい」のみで好かれていることを見るよりは、まだ納得ができるけれど、そこまでの判断ができた教師が、それほどいるとは思えない。

 だから、日本で「反知性主義」のように見えるのは、言ってみれば学生時代の記憶に基づく「成績至上主義フォビア」と言っていいものではないだろうか。


 学術会議に所属するような大学の先生は、間違いなく知的エリートで、多くの人が、小学校から大学まで、ずっと「成績のいい子」だったはずで、学術会議という組織のことを詳しくは知らなくても、そんなイメージは私にも浮かんだから、多くの人も似たような印象を受けたように思う。

 そうすると、おそらくは、本人も意識していないレベルで、学生時代の教室の秩序である「成績至上主義」の空気や、場合によっては、具体的に受けた嫌なことを思い出し、反射的に、嫌悪感が出てきてしまったとも考えられる。

 そんな「成績至上主義フォビア」と言ってもいいような感情が、思った以上に、多くの人の気持ちに残っているから、「学術会議」がそれほど支持を受けなかったように思うけれど、どうだろうか。

 だから、健全な教育環境は本当に大事だと、改めて思う。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





#反知性主義    #成績至上主義    #成績のいい子    #教師
#教育環境   #学校   #学生    #最近の学び   #探究学習がすき
#ちょいワル   #エリート   #毎日投稿 #学術会議  
#学術会議任命拒否問題

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。