映画『ロストケア』批判。(後編)。
映画『ロストケア』を見て、どうしても違和感がぬぐえなかった。
それは、元・家族介護者で、現在は、家族介護者の支援をしている人間の偏った視線かもしれない。だけど、その違和感の元は、家族介護者の気持ちへの理解が、あいかわらず進んでいない、ということだった。
描かれていないこと
どんな話でも、基本的には、家族介護者は、弱い存在として描かれていることが多い。
家族介護者は、助けなくてはいけない。家族だから、いろいろな意味で知らないことが多いはず。色々と、専門家からの指導が必要。プロの介護者は、夜勤だったら何十人も見るけど、家族は一人だけ。
それらは事実かもしれないが、介護を続けている時、家族介護者として、そんなふうなことを聞いたり、見たり、読んだり、感じたりして、なんだか嫌な気持ちになっていた。
本当に、家族介護者の大変さが、わかる専門家がどれだけいるのだろう。そういう印象は、この映画を見ても、変わらなかった。
この映画『ロストケア』でも、こうした家族介護者の強さや、凄さや、成長は、描かれていない。私も、自分が介護をしている中で、強く、静かで、心が澄んでいるような、すごい家族介護者に何人も出会ってきた。そういう人たちに会うたびに、私自身は、そんなに大変な介護をしていないのに、自分だけが大変な目に遭っていると思うような、そんな介護者として未熟であることを、教えられてきたような気もしてきた。
介護をしている人は、魂の削り合いとしか思えない毎日の中で、それこそ家族介護者自身も、自分が死ぬかもしれないような日々を過ごすうちに、気がついたら、強くなっている。というよりも、そうした成長がなければ、介護を継続できないのだと思う。
そういうことは、映画『ロストケア』の中でも、はっきりと描かれていない。
3年間も厳しい介護を経験し、自身も父親を殺害することまで追い込まれた「ロストケア」の主人公は、それでも、人としての成長があるに違いない。さらには、あれだけ認知症の父親を細やかに介護してきたのだから、認知症の人間の気持ちの変化に対して、とても敏感に察するようになっているはずだ。
だからこそ、繰り返しになるのだけど、他の人の家族である認知症の人を「救い」と称して殺害する人間になるのは、やはり、フィクションとはいえ、どうしても納得がいかない。
逆にいえば、そうした変化や成長をしていない人間のままだったら、映画で描かれたような、あの厳しい状況での、あんな細やかな介護ができるとは思えない。
あれだけの困難を乗り越えた人間(最終的には殺害することに追い込まれたとしても)が、自分が介護士になり、支援の専門家になったときに、殺害という安直な方法を取る設定は、やはり納得ができない。
それは、家族介護者への理解が足りていない、映画の中で言えば、「安全地帯」からの発想にしか、思えない。
納得のいく設定
映画制作などには素人で、だから、失礼で不遜なのは分かっているけれど、元・家族介護者が、介護士になり、「救い」と称して、介護を必要とする人を殺害するような、大量殺人者になる設定は、どうしても不自然だと思う気持ちは変わらない。
もしも、この「ロストケア」を主張する斯波(松山)が「存在」するとしたら、例えば、こうした場合に限られるのではないか。
一つは、父親を介護していた時に、ほぼネグレクトに近い状況の場合。それならば、まだ、納得ができる。
もう一つは、斯波(松山)が、父親を殺した時点で、自責の念と後悔と悲しさと悔しさと感情が激しすぎて、精神のバランスを崩しながら、それでも、自分が選択した方法(父親を殺害する)が正しいと思いたくて、その再現を繰り返す。それは、現実なのか、夢なのか、わからない状況だけど、ただ、それは、実際には、こうした状態の人が犯行を実行するのも考えにくいので、結局は、妄想の中のことだと、最後に観客に分かる。
もしくは、やはり、さらに傲慢で失礼な提案だけど、大幅に設定を変えた方がいいのではないか、という思いも消えない。
大幅な変更
父親を殺してしまい、その犯行がバレなかった主人公の斯波(松山)は、自分と同じような状況の介護者を助けたくて、介護士となり、献身的な仕事を続ける。
自分のような事件を起こしてしまうかも、というような厳しい介護環境にいる介護者には、勤務時間外に、そっと介護を行うようになる。ほとんど、違法スレスレ、もしくは違法(施設関係者を脅迫して)でも、突然、施設入所が可能になるような働きかけをする。
斯波は、そんな生活をしているが、父親を殺した夢を見て、うなされ、よく眠れない日々が続く。時には、今、仕事で関わっている認知症の高齢者を殺めている夢まで見て、目が覚める。そんな日々が続く。
そうした毎日が続いたとき、突然、高齢者が亡くなり始める。それも、斯波(松山)が介護士として担当している、認知症を患っている人たちばかりだった。どの死亡事例も、病気で事件性がないと判断されているが、斯波(松山)は、密かに家に忍び込んで、介護もしていたりしたし、殺害した夢を見ていたので、あれは現実ではないか、と怯え始める。
そんな時、斯波(松山)の部屋から、殺害に使用したと思われるニコチン注射の証拠が出てきて、逮捕される。
その後、斯波(松山)は、初めて、父親を殺したことを自供する。それは、やはり、「穴」に落ちたから、という主張はするし、罪を認めながらも、社会のおかしさを語る。
法廷で裁かれたとき、斯波(松山)は、どこか自暴自棄になっていたせいもあり、社会のおかしさとともに、自身の父親殺しのことも語り、そして、まだ半信半疑でありながらも、大量殺人についても、もう夢か現実かわからなくなっているので、「そうです、私は助けたかった」という言葉を繰り返す。
それに反応して一人の人間が傍聴席で立ち上がる。
「助ける?…そうじゃない。救いなんだ。救ったんだよ」。
それが、大量殺人の真犯人だった。斯波(松山)の過去を知り、盗聴器によって動向を探り、彼に疑いが向くようなことをしていた人物だった。その真犯人は、長年、安楽死を強く主張し続けていた人間だった。
いろいろと、稚拙で申し訳ないのだけど、やはり、こうした設定の方が、介護の問題と、安楽死・尊厳死のことも、もっと広く深く議論できる作品になったように思う。
ドクターキリコ
こうした主張をし、実際にALSの患者を死に追い込んだ医師も存在する。そして、この医師が影響を受けているのが漫画「ブラックジャック」に登場するフィクションの存在だった。
フィクションの存在である「ドクターキリコ」でさえ、影響を与えることがある。映画とはいえ、『ロストケア』では、実際に介護を経験した人間が、その後、安楽死させる行動をとったことで、より説得力が増して、もしかしたら、悪影響が出る可能性もある。
それなのに、厳しい介護を3年もしてきた人間が、安楽死させる存在になるという設定に無理があるので、余計に異議を唱えたくなる。
安楽死
この記者の方は、ご自身も障害を持つご家族がいらっしゃって、その上で、植松死刑囚に面会をし、それは、おそらくは想像できないような辛さもあったと思うのだけど、だからこそ、聞いたときに、胸にせまる優れたラジオドキュメンタリーを制作したことは知っていた。
そして、神戸氏は、実際の事件と、映画の共通点を挙げている。
その上で、こうした見解を述べている。
個人的には、安楽死や尊厳死のことは、冷たい国だと思える日本では、諸外国と比べても、より認められるべきではないと考えているが、神戸氏にとっても、現実とフィクションを超えての比較になったとしても、植松死刑囚は、尊敬できない人格であり、松山ケンイチの演じる犯人は立派な人に感じることが、大きな違いに見えるのではないだろうか。
そして、私も、この松山ケンイチの演じる犯人は、大量殺人をする前までは(父親を殺してしまったのは犯罪だけれど)、間違いなく、立派な人間だと思う。
2人の違い
ただ、この記事の中で、神戸氏があえて触れていないかどうかは不明だが、この現実とフィクションを超えた2人の違いで、私にとって最も大きいのは、家族か、そうでないか、だった。
植松死刑囚には、障害を持つ家族はいないはずだ。障害者の施設で働いた時も、尊敬できるプロではなかったようだ。それでも、その犯行に対して、賛同の声さえ上げる人がいた。
松山ケンイチが演じる犯人は、最終的には殺害してしまったとしても、それまでは父親に対して細やかな介護を続けていた。その後、プロの介護士として立派な仕事をしながら、「救い」と称して、大量殺人をしてしまう。
フィクションとはいえ、介護をする家族介護者であったことが、この「大量殺人」という行動に、より説得力を持たせてしまう可能性がある。同時に、この設定には、とても無理があるから、ドラマを盛り上げるために使うべきではないと思うのは、ドクターキリコでさえ(「ブラックジャック」が優れた作品だからこそ)、影響力を持ってしまうからだ。
しかも、松山ケンイチが演じる犯人は、繰り返しになるけれど、その存在そのものに、とても説得力があった。
だからこそ、その後の影響が、気になってしまう。
優生思想
社会学者・立岩真也は、「相模原障害者殺傷事件」について、こうしたことを記している。
批評家・杉田俊介は、こう書いている。
だからこそ、映画『ロストケア』は、製作者の意図がどうあれ、その作品に力があればあるほど、年月が経つほど、優生思想に与するものになる確率は高い。
それを少しでも避けたいのであれば、主人公・斯波が、厳しい介護に追い詰められて、父親を殺すことに追い込まれたとしても、そして、そのことがあったからこそ、それから先は、介護に関わっても、絶対に殺さない。そういう人間に描くべきだったと、今でも思う。そして、その方が、家族介護者の現実に近いものだと思う。
2016年に相模原障害者殺傷事件、2019年にALS嘱託殺人が、現実に起きてしまった後は、2013年に発表された原作の設定そのものを変えないと、ハリウッドのヒーローものでも、ディズニーでも、意識の更新が著しいのだし、2023年以降の未来に対応できないのではないだろうか。
してもらいたいこと
自分がしてもらいたいことは、他の人にも、同じようにしなさい。
「ロストケア」の主人公は、そうした聖書からの言葉(詳細が違っていたら、すみません)を引用し、殺人を続ける。それが、自分がしてもらいたかったこと、といった含みがあるようだ。
それは、松山ケンイチの演技によって、とても説得力のある行為にさえ見えてしまう。
個人的には、介護をしていた頃は、親に殺害の気持ちも湧いたし、死んでほしい、そして、自分が死にたいは、ぐるぐると回っていた。だから、松山ケンイチの演じる犯人と、近い場所にいたのかもしれない。
だけど、それが殺意かといえば、やっぱり違うと思う。その状況から抜け出したかっただけだと思う。
そういう気持ちが最初に高まった時は、母の入院する病室だった。
私のろっ骨の中で、知らない生き物が暴れていて、今にも自分の体を突き破って出てくるのではないか。その時は、脈が時々、止まるのがはっきりとわかり、自分が心臓の発作を起こしているらしいことはわかったが、とにかく、母親をみてくれ、迷惑ならないように、ばかりをその病院に言われていたし、判断ミスをするような病院でもあったから、私さえ、助けてくれるような気がしなかった。
もう死ぬかも、と思った時、かなり冷たい気持ちで、目の前で寝て起きて、動き回ろうとする母親をみて、いよいよ意識が遠くなって、本当に死が近づいたら、母親も連れていこう、と決めていた。それは、迷惑になるから、という気持ちだった。
幸いにも、そんなことにならずに済んだものの、そんな経験をしたあとに、自分が「してもらいたい」ことは、はっきりと見えていた。
それは、「理解」だった。
特に、介護の専門家、医療関係者に、介護が必要な人間(認知症の人たちなど)だけでなく、少しでもいいから、介護をする人間(家族介護者)のことも「理解」した上で、支援してほしかった。
介護の行為には慣れたとしても、いつまで続くか分からないことには、ずっと慣れず、おそらく(精神的に)最も辛いこと。
介護は、特に在宅の場合は、ずっと気にかけている。何もしていないようでも、ずっと緊張が続いている。
そんな家族介護者の間では、常識のようになっていることさえ、専門家の、どれだけが知っているのだろうか。
無力感
だから、私は、少なくとも「理解」しようとする支援者になろうとした。
介護を続けながら、勉強を始めて、学校に入り、資格をとった。
それが2014年だった。同じ年に、介護者を心理的に支援する仕事も細々と始めることができた。
支援の実践だけではなく、家族介護者への「理解」を少しでも広めようと、機会があれば、話もさせてもらった。学会での発表もした。ただ、2018年の末までは、妻と一緒に義母の在宅介護が続いていたため、心身のエネルギーを大量に介護に使い、自分の能力が足りないこともあり、そうした活動も、本当に少ししかできなかった。
介護の時間、特に自分の母親の介護をしているときは、大げさな表現で恥ずかしいが、本当に魂の削り合いのような気がした。だけど、不思議なのだけど、義母の介護の方が長く、在宅で続いたが、義母に対しては、殺害したい思いになることはなかった。
ただ、こうして19年の介護が終わってから、厳しい状況の時は、魂が3分の1以上削られていたのではないか、という感触があった。それが時間が経って、新しい魂が育ってきていて、介護以前があまりにもダメな人間だったのだけど、それでも、介護前とは、少し違う人間になった気がした。
その後は、コロナ禍になってしまった。介護中に喘息になってしまった妻もいるので、今もできる限り、外出の自粛は続けている。
それでも、できることはいろいろとあったはずだから、言い訳になってしまい恥ずかしさもあるものの、映画『ロストケア』をみて、特に俳優の方々の演技がすごかっただけに、その設定そのもので、介護者への理解が進んでいないことが際立った気がした。
この10年、自分がやってきたことは、世の中に全く届いていない気がした。本当に無力なんだ。
そんな気持ちで、悲しくなった。
だから、余計に、映画『ロストケア』に、異議を申し立てたくなったのかもしれない。
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