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エッセイ・コラム

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2024年1月の記事一覧

人生の癖~私の場合は「現状の否定」だと思う~

人生の癖~私の場合は「現状の否定」だと思う~

人間には誰しも癖がある。手癖だったり口癖だったりそれは様々であるが、性格や物事の捉え方、人生の癖みたいなものもあると思う。

私自身、ふと人生で意思決定をしてきたタイミングを振り返ってみると、ひとつの「癖」があることに気づいた。
それは、現状の否定こそが己を動かしてきたということだ。

明確に意思決定をした最初の瞬間は水泳をやめたときである。詳しい話はここで書いているが、簡単に言うと水泳に限界を感

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文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

以前取材先の人から「文章を書いて世に発信するって僕にはできないです、自分の書いている文章を自分で読むのがなんだか恥ずかしいので」と言われたことがあった。なるほどなあと思いつつ、私は自分の文章を誰かの前に晒すことに何ら抵抗がないという事実に気づいた。

厳密にいうと、文章を晒すことが恥ずかしいとか恥ずかしくないというより、文章を書くことの快感がある状態なのだろうと思う。
そんな気持ちの良い状態を経験

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「転職するほどの気力もない」とこぼす20代

「転職するほどの気力もない」とこぼす20代

ある時、激烈な仕事に追われる20代の社会人女性と話す機会があった。
創業社長のように死ぬほど働いて成功したるぞという気概を持って爆裂に働いているのであれば何も問題はないのだが、聞くところでは彼女はいたく疲れた様子で「この間も退職者が出て…」とすっかり落ち込んだようである。

仕事が大変でも続けるのかどうかは個々人のキャリアビジョンや人生観に依るところも大きいので、辛いからやめたらいいよと無責任に言

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「ポロリ」を哲学する

「ポロリ」を哲学する

ときおり、YouTubeなんかで「女性タレント○○のポロリ!」といった品の無いタイトルの映像がある。
私もあきれ返りつつやましい気持ちは一切無いなかで念のため見てみると、どう見ても「ポロリ」はしていない。

こうした事例に触れるたび、「ポロリ」という言葉が間違って使われているように思えてならない。「ちょっとはみ出した/ちょっと出た」ことをなんでもかんでも「ポロリ」と表現している。
以下に触れる本当

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ネットで人の文章を読める時代になって

ネットで人の文章を読める時代になって

私がはじめてパソコンに触ったのは小学生5~6年生くらいのときだった。
家に「Windows XP」というOSのパソコンが届いたのを覚えている。パソコンの性能も通信環境も悪く、今のようにサクサク動画を見ることは難しい時代だった。
SNSもInstagramなどはなく、パソコンでやることと言えば当時流行していた「Flashアニメ」を見るかヤフーニュースを漁ることくらいしかなかった。

インターネットと

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人生には締め切りがある

人生には締め切りがある

自己理解などを深めるプログラムを提供している「ピクシスラボ」という会社がある。同社が提供している「自己理解プログラム」というのが結構面白く、私も以前試しにやってみたことがある。

その際、自分がストレスを感じるものとそうではないものを細かく分類するところがあった。
そのなかに「締め切りがある」という項目があった。個人的には「締め切りがあるほうが切羽詰まってなんとか動こうと思うし、ストレスというより

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けばけばしい化粧をしたニュースと、その中にあるすっぴんの事実と

けばけばしい化粧をしたニュースと、その中にあるすっぴんの事実と

三が日というのは毎年穏やかな時間が過ぎ、昨年の振り返りをしたり一年の目標を立てたりするものだが、2024年は元日に大きな地震が北陸に起き、2日は不幸な事故で飛行機が燃え、3日は小倉で商店街が燃えた。過去振り返ってみても類を見ないほど大きなニュースが多い一年のスタートになったと思う。

マスメディアの報道を見ていると「いやはや…」という気持ちになるのだが、世の中の人の中には「まあ別に関係ないし…」と

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ボトルキープで偽名を書き、その後どんな名前にしたか忘れる父のちょっとした一言が引っ掛かった件

ボトルキープで偽名を書き、その後どんな名前にしたか忘れる父のちょっとした一言が引っ掛かった件

年末年始で、実家で家族がそろうという奇跡が起きた。

父、母、姉、そして私の4人はいずれも、驚くほど異なった方向を見て人生を歩んでいる。そもそも家族で一緒に食事をとると言うこともあまりなく、世に言う「個食」は割と中学生くらいの時から当たり前だったので、成長してもなお一家団欒の食事を囲んでいる家庭の様子というのは、私にとっては驚きであった。
一事が万事そんな調子で、「家族」という社会的鋳型に一応はは

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