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茶道に興味のない準師範として、文化について思うこと


私はかれこれ10年以上茶道を習っている。と言うか、実は準師範の資格も持っているので、教えようと思えば誰かに教える事も出来る。ただ、実は私自身、惰性で続けているだけで茶道自体をそこまで好きかと言えば、そうでもないのが正直なところ・・・。

私と茶道

私が茶道を習いはじめたのは、大学卒業後、役所でバイトをしていた時の元上司から「早期退職をしたから遊びに来ないか?」と言われて、自宅を訪問した事がきっかけだった。行くと内容は茶道のお稽古で、あれよあれよという間にお稽古に混じることになり、「ではまた来月」「お稽古は1回3000円。もし休んだら『休んだ料1000円』ね」と言われ、100%なりゆきで今に至る。

準師範を取った時も、「今、準師範の試験を受けないと、来年には今の家元が引退してしまう。今の家元の字の門表(◯◯流 教授 ◯◯(茶名)と書かれた木の板のこと)が貰えなくなるから、あなたの分の試験を申し込んであげたわ。来月までに、手前を覚えてきなさい。あと、作文も提出出来るように準備して。受験料の20万円も立て替えておいたから、次のお稽古の時に持ってきて。実はあなたにぴったりの茶名ももう考えてあるの。楽しみだわ💕」と言われ、20万円という金額と、勝手に予定を入れられたことに愕然とする私。

とは言え師匠が勝手に立て替えて支払ってしまった以上、私にはもはや受けるしか選択肢は無い。なぜならもし私が「受験をキャンセルする」と言えば、師匠のメンツを潰すことになり、家元まで巻き込む大ごとになる。それはそれできっと試験を受けること以上に色んな人を巻き込む事になり、めちゃくちゃ面倒な事になるだろう。

それで結局「誰が書いても一緒じゃないの?」「木の板に20万円・・・マジか。」と茫然としながら、残業して日付が変わる頃に帰宅した後、連日深夜に空の茶器を何度も置き換えたり上げ下げするという、まるで怪しい儀式のような練習を幾度も幾度も繰り返し、時間があれば着物の着付けを練習し、作文も通勤の電車の中iPhoneのメモ帳に少しずつ書いてどうにかギリギリ間に合わせるというハチャメチャぶりでどうにかやり遂げたのだった。

「道」という日本文化独特の縦社会

こんな師匠との関係、茶道をしてない人から見ると異常に映るかもしれない。けれど、茶道をしている人から見ると意外と「あるある」だったりするからなかなか怖い。そして、「実は私、昔習った事あるんですが、色々人間関係がめんどくさすぎて辞めたんです・・」とカミングアウトされるのも意外と「茶道あるある」だったりもする。

少なくとも私の周りでは「道」と付く習い事は、多かれ少なかれそういう面があるとも聞くけれど、この「茶道」の中で一番大事にされているのが上下関係で、師匠や家元は神様のような存在。師匠や家元が言うことは絶対だし、それに例え矛盾があったとしても、理由を聞いたり、説明を求めるのは無粋なのである。なぜなら、理由や説明は「師匠が言うから」「家元が言うから」であって、それ以上の理由は存在しないから。

家元の言動全てが美しく、そして唯一無二の「正解」という世界観。思わず「宗教かよ!」とツッコミたくなるけど、そこには絶対にツッコめない凛とした空気も確かに存在しているので、さすがにツッコむことは出来ない。

また、これは師匠にもよるかもしれないけれど、お稽古中は出来ていない事だけ指摘されるので、指摘を踏まえながら消去法で「では一体なにが正解なんだろう?」と手探りで模索していく必要がある。

「せめて何か師匠から気づきのヒントになりそうな質問でも投げかけてくれたら良いのに」と思うのだけど、こちらから質問すると叱られるので、試行錯誤や周囲の背中を見て覚えるしかない。

しかも、その指摘は終始一貫しているわけでもないので、コロコロ変わったり矛盾する事も日常茶飯事。なので、結局「こういう不条理を受け入れ精神性を鍛える事も含めてのお稽古なのだ」と捉えるしかない。けれどこういう教え方は、個人的には「教える・習う」という観点だけで見ると、非常に効率が良くないと感じる。

「何を言うか」より「誰が言うか」

もともと何かをするにはコンセプトや理由を知りたいタイプの私としては、そういう茶道のやり方がイマイチ自分と合わなくて、茶道への情熱は始めた時から今に至るまであまり持てずにいるのだけど、一時期、師匠はそんな私に後を継がせたがっていた。

頻繁に道具や着物をくれたり、会社を休んで毎月2万円の勉強会に出席する様に強く言ってきたり。けれどその時会社員だった私は、そもそも自由に有給を使える環境ではなく、仮に有給を取っていても役員の都合に合わせて有給を取り消して結局出社する事が頻繁にあったし、「月2万円」も「後継者」も、私には荷が重すぎて、「会議でどうしても都合がつかなくて」「お金が無いので」など色々理由をつけて逃げていた。

そんな中、私にある台湾人の先生から「台湾でお手前を披露してほしい」という話があり、その対応について師匠に相談した事が大きな波紋を呼んだ。師匠は理由にならない理由を何度も繰り返し、ただただ感情的になって相談にならなかった。

実は茶道において弟子から師匠に提案するのは、立場をわきまえていないと解釈される言動で、それは絶対的なタブーだったのだ。弟子は常に受け身でいて、師匠の言うことにはいつなんどきも必ず「かしこまりました」と返事すること。そんな無言のルールを私は何度も破ったのだった。

それを知ったのは、ある日何人かの社中(師匠を同じとする仲間のこと)から「師匠に歯向かったんだって?」「クーデターを起こしたのに破門にされなかっただけ良かったね」と声をかけられた時だった。「それならそうと最初に教えて欲しかった。ってか、茶道をするには仏門か修道院に入るレベルの覚悟が必要だったんやな・・(唖然)」と思ったのは私がKY過ぎるのか、アホすぎるのか・・・。その一件は、つくづく「茶道は私には難しすぎる」と痛感させた大きな出来事だった。

モラルと文化を両立させる難しさ

茶道の道理をなかなか理解出来ず、ナチュラルに謀反を起こしてしまう私が単純に不躾なだけかもしれない。けれど、心理学の観点から見ると、日本の文化と一体化しているこの茶道の独特な感覚はあまり健康的とは言えない。とは言え、茶道という日本の文化を否定して良いかと言えばそれもまた違う気がする。

この一件以降、幸い私はもう、師匠から期待されていないので今や自由の身。なので今の私と茶道との関係は、面白そうな時や都合が合う時、気が向いたときだけ参加するという結果的には一番楽な形でこの数年落ち着いている。

物事を自分で咀嚼する自由。
誰を尊敬し、誰を信用するかを自分で判断する事が許される自由。
自分の時間やお金、ひいては人生を何に費やすかを自分で決める自由。

時々その自由を、日本の伝統文化や慣例という「日本人なら当たり前やろ」の波が有無を言わさず覆いかぶさり駆逐しようとしてくる時、私は強い息苦しさを感じ、この感覚に抵抗を感じる私は本当に日本人なんだろうか?日本人で良いのだろうか?と時々思う。

そんな日本の独特の文化について考えていた時に飛び込んできたのが、東京オリンピック会長辞任のニュースだった。

JOCの会長だった森喜朗は女性蔑視の失言をして国内外からのバッシングが収まらず謝罪会見をしたけれど、私はその会見映像を見て、「森さんは、どの点において間違っていて謝罪する事になったのか、理解出来ないまま会見に臨んでいるのではないか?」という印象を受けた。

森さんや川淵さんの言動は「男尊女卑」「長老政治」「長いものに巻かれる」「結論ありきの会議」「事実や論理より人情や感情」「男気」「議論する事より、声の大きいある1人の意見に基づき、物事を決める」など様々なベクトルの価値観が複雑に絡み合っていて、これらを一気に語るにはとても難しいのだけど、この背景には茶道とも共通する「何を言うかではなく誰が言うかが何より大事」という日本の文化が根底にある気がしていて、だからこそこれを言語化し、同じ儒教文化を共有するアジアだけならまだしも、IOCや特に論理性を重んじる欧米を含む海外のメディアなどの異文化の人から理解を得られるよう説明するのは相当難しいだろうな、と私は思った。

こういう事は日本に限らずどの民族にも多かれ少なかれある。例えば韓国の犬を食べる文化。私が10年ほど前にソウルで食べた時は、日本の「鰻」のような位置づけで、「ポシンタン」という名前で滋養のあるスープとして、裏通りの店で普通にメニューにあった。個人的には獣臭いが特別美味しくも不味くもない印象を受けて、「私には、食肉用の獣とペットとの線引きをうまく説明できる自信は無いけど、別にわざわざ食べる必要がある味ではない」というのが正直な感想だった。

他にもアフリカの部族の女児の性器を麻酔なしで縫う儀式。これは、さすがにどう考えても虐待だし命に関わる以上モラル的には即刻止めさせるべきだと思う。でも一方で彼らの文化を何も理解しないまま、正義の名の下にそこまでの強制力を一方的に行使する権限はあるのか?と考えると、それはそれでちょっと考えてしまう。

多様性というカウンターパンチの中で

茶道の根底に脈々と存在している日本の精神や文化。この多様性の時代というカウンターパンチの中で、今後一体どのようにして変化していくのか。あるいはこのまま衰退していくのか。個人的には少し楽しみにしつつ、茶道に興味のない準師範の私は、今後の茶道の行く末を静かに眺めている。

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