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第5章 武家社会の成長
2.幕府の衰退と庶民の台頭惣村の形成と土一揆
鎌倉時代の後期、近畿地方やその周辺部に造られた新しい形の村は、南北朝の動乱の中で次第にはっきりその姿を表し始め、各地方に広がっていった。このような、荘園制の内部から農民たちが自らの手で創り出した、自立的・自治的な村を惣とか惣村という❶。
惣村は、加地子という地代をとる地主になりつつあった名主を中心に新しく成長してきた小農民も構成員とし、村の神社の祭
第5章 武家社会の成長❶
1.室町幕府の成立鎌倉幕府の滅亡
鎌倉中期以後、皇室は後深草上皇の流れの持明院統と亀山天皇の流れの大覚寺統に分かれて、皇位や院政 を行う権利、あるいは皇室領荘園の相続を巡って争い、ともに鎌倉幕府に運動して有利な地位を得ようとした。そこで14世紀初め、幕府は解決策として両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)を定め、調停を行いつつ事実上は朝廷の政治を左右した。
このような中で大覚寺統から即位した後
第4章 武家社会の成立❹
4.鎌倉文化鎌倉文化
鎌倉時代は、公家が文化のにない手となって伝統文化を受け継ぎながらも、一方では武士や庶民に支持された新しい文化が生み出され、それが次第に成長していく時代であった。 新しい文化を生み出した背景の一つは、地方出身の武士が社会の中心になって、その素朴で質実な気風が文学や美術の中に自然に映し出されるようになったことである。もう一つは日宋間を往来した僧侶・商人に加えて、モンゴルの中国侵
第4章 武家社会の成立❸
3.元寇と幕府の衰退元寇
平氏政権の積極的な海外通交のあと、鎌倉幕府の下でも日宋間の正式な国交はひらかれなかった。しかし、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われ、我が国は宋を中心とする東アジア通商圏の中に組み入れられていた❶。
この間13世紀初め、モンゴル (蒙古) 高原にチンギス=ハン(成吉思汗)が現れ、モンゴル民族を統一して中央アジアから南ロシアまでを征服した。ついでそ
第4章 武家社会の成立❷
2.執権政治北条氏の台頭
すぐれた指導者である頼朝のもとでは、将軍独裁の体制で政治は運営されていたが、頼朝の死後、あいついで将軍となった若い頼家と実朝の時代になると、御家人中心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人の間で幕府の主導権を巡る激しい争いが続き、多くの御家人が滅んでいった❶。
その中で勢力 を伸ばしてきたのが、伊豆の在庁官人出身の北条氏である。1203(建仁3)年、頼
③貴族政治と国風文化4-4
4.院政と平氏の台頭保元・平治の乱
武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後は、内紛のためやや衰え始めた。これに変わって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊賀・伊勢を地盤とする桓武平氏の一族である。中でも平正盛は、義家の子で出雲で反乱を起こした源義親を討って武名を上げ、正盛の子忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、武士としても院近臣としても重く用いられる
③貴族社会と国風文化4-2
4.院政と平氏の台頭後三条天皇と院政の開始
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。すでに壮年に達し、個性の強かった天皇は、大江匡房らの学識に優れた人材を登用し、摂関家にはばかる事なく国政の改革に取り組んだ❶。
特に荘園の増加が公領を圧迫していると見た天皇は、1069(延久元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した❷。
この荘園令は、国司
③貴族政治と国風文化2-3
2.国風文化国風美術
美術工芸の面でも国風化の傾向は著しかった。建築では貴族の住宅が、白木造・檜皮葺の寝殿造と呼ばれる日本風の趣味豊かなものになった。建築内部の襖(障子)や屏風には唐絵に代わって、日本の風物を題材とし、なだらかな線と美しく上品な彩色とを持つ大和絵が描かれた。初期の大和絵の画家として、巨勢金岡が知られている。
屋内の調度品にも、日本独自の発達を遂げた蒔絵❶の手法が多く用いられ、華や
③貴族政治と国風文化2-1
2.国風文化国風文化
10世紀以後の文化の趣は、弘仁・貞観文化と比べて大きく変わった。その特色は、文化の国風化と言う点にあり、この時期の文化は国風文化と呼ばれる。国風文化の伝統は、平安時代以後も長く伝えられたが、摂関政治の時期にその基礎が築かれ、また、それが藤原氏が栄えた時代であったことから藤原文化とも呼ばれる。
日本では、7世紀以後、大陸の優れた文物や思想を積極的に吸収してきたが、日本と大陸と