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第4章 武家社会の成立❸

3.元寇と幕府の衰退

元寇

平氏政権の積極的な海外通交のあと、鎌倉幕府の下でも日宋間の正式な国交はひらかれなかった。しかし、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われ、我が国はを中心とする東アジア通商圏の中に組み入れられていた❶。

日宋貿易で、日本からは水銀硫黄、木材・米・刀剣・漆器などを輸出し、大陸からは宋銭をはじめ陶磁器香料薬品・書籍などを輸入したが、そのうちの香料薬品類は、元々は東南アジア産のものであった。

この間13世紀初め、モンゴル (蒙古) 高原にチンギス=ハン(成吉思汗)が現れ、モンゴル民族を統一して中央アジアから南ロシアまでを征服した。ついでその後継者はヨーロッパ遠征を行い、またを滅ぼして広大 なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を建設した。チンギス=ハンの孫フビライ(忽必烈)は、中国を支配するため、都を大都(北京)に移し、国号をと定めたが、その以前から南宋をせめ、高麗を服属させ、日本に対しても、たびたび朝貢を強要してきた。

13世紀後半の世界と元寇関係要図 (世界の歴史まっぷ参照)
蒙古襲来 (世界の歴史まっぷ参照)

しかし、幕府の執権北条時宗はこれを退けたので、高麗の軍勢も合わせた約3万の兵で、まず対馬
壱岐を侵した後、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。かねてより警戒していた幕府は、九州地方に所領を持つ御家人を動員して、これを迎え撃った。元軍の集団戦法や優れた兵器に対し、一騎打ち戦法を主とする日本軍は苦戦に陥った。しかし、元軍も損害が大きく、たまたま起こった大風雨にあって退いた(文永の役)。
その後、幕府は再度の来襲に備えて、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を整備するとともに、博多湾沿に石造の防塁(石塁)を構築させた❷。

異国警固番役は九州地方の御家人に課せられ、文永の役の少し前から始まったが、文永の役後、大幅に整備された。石造の防塁の構築は、御家人だけではなく、九州地方の全ての所領の所有者たちに割り当てられた。

南宋を滅ぼしたは、再び我が国の征服を目指し、1281(弘安4)年、朝鮮半島からの東路軍約4万と、中国本土からの江南軍約10万の二手に分かれ、大軍をもって九州北部に迫った。 しかし、博多湾岸への上陸を阻まれている間に暴風雨がおこって大損害を受け、再び敗退した(弘安の役)。この2回にわたる元軍の襲来を、元寇(蒙古襲来)という。
再度にわたる襲来の失敗は、海をこえての戦いに慣れない元軍が弱点を表したことやに征服された高麗南宋の人びとの抵抗によるところもあったが❸、幕府の統制のもとに、主に九州地方の武士がよく戦ったことが大きな理由であった。

❸特に高麗は30年あまりモンゴル軍に抵抗した後に服属したものの、以後もさまざまな形で抵抗を続けた。フビライは日本との交渉や日本の攻撃に高麗を利用したが、高麗に対する抵抗の継続は、日本遠征の障害となった。また南宋大越(ベトナム)にもへの抵抗の動きが起こり、3度目の侵攻を断念させる要因ともなった。

元軍との陸戦の図
文永の役における陸戦の一部。日本の騎馬武者は、当時29歳の竹崎季長である。元軍てつはうと呼ばれる火薬を利用した武器を使用して日本軍を悩ませた(『蒙古襲来絵巻」)。
北条氏の守護職独占
元寇を機に北条氏一門は、全国の守護の半ば以上を手中におさめ、独占体制を固めた。

元寇後の政治

はその後も日本征服を計画していたので、幕府も警戒態勢を緩めず、九州地方の御家人をひき続き異国警固番役に動員した。また、御家人以外に、全国の荘園公領の武士をも動員する権利を朝廷から獲得するとともに、元寇を機会に西国一帯に幕府勢力を強めていった。特に九州の博多には北条氏一 門を鎮西探題としておくりこみ、九州地方の政務や裁判の判決、御家人の指揮にあたらせた。
幕府の支配権が全国的に強化されていく中で、北条氏の権力はさらに拡大し、中でも家督をつぐ得宗の勢力が強大となった。

北条氏の嫡流の当主のことで、得宗の名は義時と号したことに由来すると言われている。その地位は義時から泰時経時時頼時宗貞時高時と受け継がれた。

それにつれて得宗の家来の御内人と、本来の御家人とのあいだの対立も激しくなり、時宗北条貞時の代になると、1285 (弘安8)年に有力御家人安達泰盛らが御内人の代表の内管領平頼綱に滅ぼされた (霜月騒動)。貞時はやがて頼綱も滅ぼし、幕府の実権をにぎった。得宗の絶対的な勢威のもとで, 内管領を始めとする御内人が幕政を主導した。これを得宗専制政治と呼び、全国の守護の半ば以上は北条氏一門が占めて、各地の地頭の職もまた多くは北条氏の手に帰した。

社会の変動

ちょうど元寇とあい前後する頃、かつて平安時代後期から形づくられてきた荘園公領にもとづく社会の体制は大きく変化し始めていた。農業技術は発展し、畿内西日本一帯ではを裏作とする二毛作の田が増加し、山野の草や木を肥料とし、鉄製の農具や馬を利用した農耕が広がっていった❺。

❺この時期には多収穫米である大東米も輸入され、肥料には草を刈って田に敷きこも刈敷や、 草木を焼いて灰にしたものを利用した。

また、農民は副業として荏胡麻 (灯油の原料)などを栽培し、絹布や麻布などを織ったりした。鍛治・鋳物師紺屋などの手工業者も多く、農村内に住んだり、各地を周り歩いて仕事をしていた。
荘園公領の中心地や交通の要地、寺社門前などには、これらの物資を売買する定期市が開かれ、月に三度の市(三斎市)も珍しくなくなった。地方の市場では、地元の特産品や米などが売買され、中央から織物や工芸品などを運んでくる行商人もあらわれた。京都・奈良・鎌倉などの中心的都市には高級品を扱う手工業者や商人が集まり、定期市のほかに常設の小売店(見世棚) もみられるようになった。
これらの商工業者たちは、すでに平安時代の後期頃から、天皇家貴族大寺院などの下に同業者の団体であるを結成し、保護者の権威にたよって、販売や製造についての特権を認められていた。
遠隔地を結ぶ商業取引も盛んで、各地の港や大河川沿いの交通の要地には、商品の中継ぎと委託販売や運送を業とする問丸(問)が発達した。売買の手段としては、米などの現物にかわって貨幣が多く用いられるようになっていたが、それにはもっぱら中国から輸入される宋銭が利用された❻。

❻かつて律令国家が鋳造した皇朝十二銭は、平城京平安京を中心とする一部の地方に流通するにとどまり、しかも律令制の衰退とともに使用されなくなった。以後は銭にかわ って米・絹布などが用いられていたが、鎌倉時代になって、また貨幣が流通するようになった。

更に遠隔地間の取引には為替❼が使われ、金融機関としては高利貸業者の借上も多くあらわれた。

❼金銭の輸送を手形で代用する制度で、替銭ともよばれた。

荘園の年貢も貨幣でおさめる風がおこってきた❽。

❽年貢の銭納といっても、荘官地頭が集めた年貢米を市で銭にかえて荘園領主に納めたのであって、直接耕作にあたる農民の年貢は、やはり現物納が普通であった。

荘園領主地頭の圧迫や非法に対抗する農民の動きも活発で、団結して訴訟をおこしたり、集団で逃亡したりする例も多くなった。一方、畿内やその周辺では荘園領主に対抗する地頭や、非御家人の新興武士たち が、武力にうったえて年貢の納入を拒否したり、荘園領主に抵抗するよう になった。これらの武士は当時悪党とよばれ、その動きはやがて各地に広 がっていき、農民の運動とともに荘園領主幕府をなやますようになった。

幕府の衰退

生産や流通経済のめざわしい発達、社会の大きな変動の中で、幕府は多くの困難に直面していた。元寇御家人達に多くの犠牲を払わせたが、幕府は十分な恩賞を与えることができず、御家人達の信頼を失う結果になった。また御家人達の多くは、以前からの原則であった分割相続の繰り返しによって所領が細分化され❾た上、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏していたから、元寇の影響は一層大きかった。

❾この動きにともなって女性の地位も低下の傾向をみせはじめた。女性に与えられた財産は少なくなり、また本人一代限りで死後は惣領に返す約束つきの相続(一期分)が多くなった。

幕府は窮乏する御家人を救う対策をとり、1297 (永仁5)年には永仁の徳政令を発布し御家人所領の質入 れや売買を禁止して、それまでに質入れ・売却した御家人領を無償で取り戻させ、御家人が関係する金銭の訴訟を受け付けないなどの思いきった手段に訴えた。しかし、効果はあがらなかった。
中小御家人の多くが没落していく一方で、経済情勢の転換をうまく掴んで勢力を拡大する武士もうまれた。特に守護などの中には、没落した御家人を支配下にいれて、大きな勢力を築くものもあらわれた。
このような動揺をしずめるために、北条氏得宗専制政治は強化されたが、それはますます御家人の不満をつのらせる結果となった。こうして幕府の支配は危機を深めていった。

永仁の徳政令
鎌倉幕府が出した箇条書の法令
一 質流れや売買地について,これについて地頭・御家人が買いとった土地は,貞永式目の規定を守り,売却後20年以上経ったものは元の所有者(売主)は取り戻すことはできない。しかし非御家人借上などが買いとった土地については,経過年数に関係なく,売主が取りもどすことができる。
鎌倉幕府から六波羅探題に送られた箇条書の法令
一 判決ずみの訴訟の再審請求を禁止する。(越訴が激増して,再審請求者も勝訴者も疲弊し,困窮の原因になっている,としている。)
一 質流れや売買地について。これについて,所領を質流れにしたり売買することは,御家人が困窮するもとであるから,今後は禁止する。以前売却した土地については,もとの所有者の御家人が領有せよ。ただし,(買主が御家人のときは)幕府が売買を認めた公文書をもっていたり,知行して20年経過している場合は,公領(将軍の恩給地)と私領(先祖伝来の私領)にかかわりなく,今更変更する(取りもどす)ことはしない。もしこの規定に反して奪い返そうとする者は処罰する。次に非御家人や借上などが,御家人から質流れで買い取った土地については,20年も経過していても売主が領有せよ。
一 利息つきの金銭の貸借について,これについては,誰でも必要の時に,わずらわしい利子のことも考えずに借金を重ねるので,金持はもうけをますますふやし,困窮者はますます苦しくなる。今後は金銭貸借の訴訟は一切受つけない。たとえ幕府の売買公認の文書を持ってきて,弁償しないと訴え出ても取りあげない。

備前国福岡の市場
(『一遍上人絵伝』, 部分) 1278(弘安元) 年,福岡は宿駅として発達したところで、一遍が見た市の情景である。市日には、道路を挟んで建てられた仮小屋に、所せましと品物が並べられ、活発な交換が行われたのであろう。(京都 歓喜光寺 蔵)

●● 悪党の活動
13世紀末、東大寺領の播磨の大部荘では、年貢未進のため解任された前の荘官が、武装した数百人の悪党、数千人の人夫をひきいて深夜、荘内に押し入り、年貢米から牛馬・銭など荘民の財産をことごとく奪い取ってしまう事件が起こった。ちょうどこのころから播磨国をはじめ、畿内西国悪党の行動が目にあまるものとなった。悪党はやがて大きな勢力となって、城を構えては石つぶてを打ち、山から材木をころがしては敵を倒し、さらに荘園へと討ち入り、ものを奪い取るようになったという。大部荘の事件もその一つにすぎないが、この悪党の一味には楠木正成の一族か、あるいはその父かとも推定される河内楠木入道という人物も加わっていた。のちの元弘の変で, 北条氏の大軍を悩ませた正成の戦法は、悪党の戦法と大変よく似ている。 

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