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③貴族政治と国風文化2-3

2.国風文化

国風美術

美術工芸の面でも国風化の傾向は著しかった。建築では貴族の住宅が、白木造・檜皮葺の寝殿造と呼ばれる日本風の趣味豊かなものになった。建築内部の襖(障子)や屏風には唐絵に代わって、日本の風物を題材とし、なだらかな線と美しく上品な彩色とを持つ大和絵が描かれた。初期の大和絵の画家として、巨勢金岡が知られている。
屋内の調度品にも、日本独自の発達を遂げた蒔絵❶の手法が多く用いられ、華やかな中にも落ち着いた趣を添えた。

❶漆器に漆で文様を描き、それに金・銀などの金属粉を蒔き付けて模様とする技法。平安時代以降、特に発達し、海外でも名高いものとなった。また、貝殻の真珠光の部分を薄く磨き、種々の形に切って漆器に埋め込む螺鈿の技法もこの頃発達した。

書道も前代の唐様に対し、優美な線を表した和様が発達し、小野道風藤原佐理藤原行成三蹟と呼ばれる名手たちが現れた。それらの書は美麗な草紙や大和絵屏風などにも書かれ、調度品としても尊重された。
浄土教の流行に伴い、これに関係した各種の美術作品が数多く作られた。藤原道長が建立して、その壮麗さをうたわれた法成寺は、阿弥陀堂を中心とした大寺であり、その子頼通の建立した平等院鳳凰堂は、阿弥陀堂の代表的な遺構である。その本尊の阿弥陀如来像は、柔和で気高い姿をしており、作者の定朝はは当時最も有名な仏師で、従来の一本造に変わる寄木造❷の手法を完成し、仏像の大量需要に応えた。

❷一木から一体の仏像を彫り起こすのではなく、仏像の身体をいくつかの部分に分けて別々に分担して彫り、これを寄せ合わせて作る能率的な手法。

また、往生しようとする人を迎えるために仏が来臨する場面を示した来迎図も盛んに描かれ、人々の信仰を助けた。

寝殿造(東三条殿)
東三条殿は、平安時代の邸宅で、当時の代表的寝殿造である。東西約109m・南北約218mの広さで、周囲に築地塀をめぐらし、東と西に四則門がある。敷地の中央に神殿があり、東面には透渡殿が設けられて、東対と接続する。西面は透渡殿から西透廊が延びて釣殿へと続く。庭園には、池や中島があった。

主な建築・美術作品

建築
醍醐寺五重塔
平等院鳳凰堂
法界寺阿弥陀堂
彫刻
平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(寄木造)
法界寺阿弥陀如来像(寄木造)
絵画・書道
高野山聖衆来迎図
平等院鳳凰堂扉絵
屏風土代
白紙詩巻

平等院鳳凰堂
1052(永承7)年、藤原頼通が宇治の別荘を寺としたのが平等院である。その阿弥陀堂である鳳凰堂は、1053(天喜元)年に落成した。裳階を付けた中堂を中心に左右に造られた2階建ての翼楼は、鳳凰が翼を広げた姿を模ったものとも言われている。

貴族の生活

男子の正装は、束帯やそれを簡略にした衣冠、女子の正装は唐衣や裳をつけた十二単と呼ばれる女房装束で、これらは唐風の服装を大幅に日本人向きに作り替えた優美なものである❸。

❸男子の通常服は、これらを簡略化した直衣狩衣で、女子の通常服は、小袿に袴をつけた。庶民も水干直垂を用いた。

衣料は主に絹を用い、模様や配色などにも日本風の意匠を凝らした。
生活の場である住宅も、開放的な日本風の寝殿造であり、そこに畳や円座をおいて座る生活であった。食生活は比較的簡素で、仏教の影響もあって獣肉は用いられず、調理に油を使うこともなく、食事は日に2回を基準とした。
10〜15歳くらいで男子は元服、女子は裳着の式を上げ、成人として扱われるが、男子は官職を得て朝廷に出仕した。彼らは多く左京に住み、摂関家などは大邸宅を京中にいくつも持っていたが、大和の長谷寺などに、参詣するほかは、京を離れて各地を旅行する事は稀であった。
貴族は、運命や吉凶を気にかけ、祈祷によって災厄を避け、福を招くことにつとめ、日常の行動にも吉凶に基づく多くの制約が設けられていた❹。

❹特に中国から伝来した陰陽五行説に基づく陰陽道の影響が大きかった。天体現象暦法も全て吉凶に関連するものとして解釈され、日柄によって行動が制限された。また、少し変わった事があると、その吉凶を占い、物忌と称して、引き篭もって慎んだり、方違と言って凶の方角を避けて行動したりした。

こうして、望んだ現世の栄達富貴が得られなくなった時失望は、大きく、これもまた彼らの来世の頼みに浄土教を信仰する一要因になった。

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