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わたし。高校編。

はい、続編です、、、また長くなっちゃった、、、

今回は、多感な中学編。を過ぎて、ようやっと、高校生です。また、すこしだけ、おとなになったような、なっていないような。長いんですけど、読んでくれますか?

どうか、どうか、お時間のあるときに!!!!

以前の、中学編。と、幼少期編。も置いておきますので、高校編から見てもなぁ、知らんし。
昔のから見てやるか、という、こころのお優しい方へ、どうぞ!

中学編。より昔のが、幼少期編。です。↓うまれたところから。

さてさて、やっていきましょう。
中高一貫だったので、一般的に行われる、高校生になるための、受験勉強がなかった。でも、たしか、何らかのテストはあった気がするけれど、その結果がどう、ってことはなくて、卒業式というよりも、修了式みたいなものがあった記憶。
ほとんどのひとが、そのまま高校にあがるだけなので、お別れとかもなかった。気がする。というか、わたしの記憶にないのだから、わたしと別れを惜しむようなひとがいなかった、というのが正しいのかもしれない。

春休みの時期も部活はあったので、卒業、という実感はなかった。高校生になって変わったことといえば、制服が変わったくらい。あとは、外部の中学校から入学してきたひとたちのクラスが増えたこと。

でも、わたしの通っていた学校は外部からきたひとたちと、クラスが一緒になることはなかったので、部活以外では接点が、ほぼなかったし、興味がなかった。

私立の女子校ならではかもしれないのだけれど、中学校からいた我々は、なぜか、外部からきたひとたちを、なんとなく見下していた。我々は中学から私立だ!どうだ!という空気があった。外部からきたひとたちのほうが、よっぽど学力も、社交性も優れていただろうに。あいつらは、よそもの、だと思っていた。

高校1年生のときのこと、ほぼ思い出せない。あ、ORANGE RANGEとか、ジャニーズがめちゃくちゃすきだった。ORANGE RANGEに関しては、ファンクラブに入るほどだった。ジャニーズは、流行っていたグループよりも、ジャニーズのバックバンドとか、関西のジャニーズジュニアたか、マニアックなものを好んでいた。暮らしは変わらず、部活のみの日々だった。
尊敬する先生の信者のようだった。どんどん楽器にのめりこんでいた。練習できることが嬉しかった。そういえば、この頃にはわたしも、中学時代に恐れていた、鬼のような先輩になっていた。
練習をしない後輩が許せなかったし、下手くそのくせに平気な顔をしているやつらを、ボコボコにした。(精神的に。)
わたしは、なんとなく上手なほうだったので、そこそこに頑張ってくれる後輩もいて、かわいがっていたし、やっぱり言うことを聞いてくれて、一生懸命やっている姿を見ると、更に頑張らなくては!と躍起になっていた。

この頃も、親は別々に暮らしていたけれど、朝晩の送り迎えはしてくれる日もあった。お迎えにきてもらって、親と居酒屋でご飯を食べることが多かった。お迎えしてくれない日は、変わらずおばあちゃんのごはんだった。
部活のことで満たされていたので、家族関係が崩壊していることは、さほど大変ではなかったけれど、振り返ってみると、弟はかわいそうだった。中学生になる前から別々に暮らしていたから、たぶん、グレていた。
わたしはじぶんのことで精一杯だったから、この頃の弟のことを全く知らない。姉のことも、もうわからなくなっていた。

あと、裕福じゃないのに、私立に通えていたのは母子家庭の奨学金をもらっていた、借りていたからだった。申請には、たしか母と二人でいった。
母と、いまの父親は、そのときただの恋人だったので、わたしの父親ではなかった。そのときに、学校をやめる、ということを考えたことがなかったので、後先考えずに通っていた。

これがのちに、心を蝕むことになった。

気づいた頃には、将来の夢もできていた。楽器を教えてくれていた、あの尊敬する先生は、わたしに夢を与えてくれた。

休憩しなくて大丈夫でしょうか?やっと、高校1年生から高校2年生になるところですよ、、、長いな。

あっという間に高校2年生になって、修学旅行は海外へ行った。英語の成績はよかったし、これもまた、夢へ繋がる意義のある修学旅行だった。修学旅行の行程のなかに、ホームステイも組み込まれていて、後述する、きーと二人組だった。ステイ先のファミリーのママが料理上手で、食事が本当においしかった。お買い物や、教会にも連れていってもらった。中学の修学旅行は散々だったけれど、高校の修学旅行は楽しかった思い出もある。

わたしの所属していた部活は、365日のうち、300日は部活があったような気がする。お休みはテスト期間と、お盆期間、夏休みの最後の二日間と、年末年始のみ、あとは、急なお休みもあった。

高校2年生のお盆休み中に海に行った。中学から部活も一緒で、わりと悪友だった。仮名を、きー、としよう。きーと海でナンパされて、男の子たちと仲良くなった。
夏休み最後の日は、仲の良かった四人組(わたし、きー、のん、かっちゃん)でお泊まり会をした。みんな中学からで、部活も一緒だった。
お泊まり会した理由は、夜に出掛けていって、先日海でナンパされた男の子たちと遊ぶためだった。予定通りおしゃべりなどをして楽しんだ。でも、その男の子たちと、早めに解散してしまって帰れなくなって、きーとのんが少し年上の男のひとたちを呼んだ。
当時のわたしたちには、それがすごく刺激的だった。親に内緒で夜中に出歩いて、男の子たちと遊んだり、少し年上の男のひとたちと、初めてお酒をのむ、などの悪いことをした。明け方送ってもらって解散した。なつかしい。わたしにも、楽しかった思い出はあった。このときの、三人は、おとなになってからも、ごくたまに会った。少し前までは、連絡もとっていた。

別の日には、きーとクラブにも行った。初めて行った。親と別々に暮らしていたのに、なぜか厳しいわたしの母親に、ばれないように。きーがお洋服もお化粧品も全部貸してくれて、いいかんじ、の装いにしてくれたのがなつかしい。そこでも飲酒をした。翌朝、きーの家で蕁麻疹がでた。驚いた。

これがのちに、大問題になる。


高校2年生は、全体的にすごくたのしかった。
きー、のん、かっちゃんと、仲が良かったし、クラスもちょうど二人ずつにばらけていた。部活も一緒で、お休みの日も一緒に過ごすことが多かったから、学生時代でいちばん楽しかった時期かもしれない。
だけど、みんなそこそこにお嬢様だった。だから、じぶんだけ裕福じゃないし、家族もちゃんとしていないことが、こころのどこかに引っ掛かっていて、つらかった。遊びにいくにもお金がいつもなくて、おばあちゃんのお財布からお金を盗ったこともあったし、ある時期から、学校への定期券代を節約するために、隠れて自転車で通ったりもした。
でも、きーは、これにも付き合ってくれた。家の方角は違うのに、朝練前に待ち合わせして朝マックなどをした。

母が不機嫌な日はお金をもらえなかった。お金がなくて、部活の費用が払えない時期があった。つらすぎて、恥ずかしくて、顧問の先生に、お金が払えないからやめたい、と伝えた時期もあった。そのとき、顧問の先生は、

そんなことはいいから、払えるときに払えばいい。払えなかったとしても、いつか卒業して働けるようになってから払うでもいいから、とにかくやめることはない、つづけろ。

と言ってくれた。顧問の先生には、永遠に頭が上がらない。恩師だと呼べる人。
このあとも、何度もわたしのことを助けてくれた。厳しい先生だったけれど、敬う気持ちしかない。

高校2年生のとき、部活でも大きな役割も任せてもらって、ますます部活に、練習に励んだ。部費が払えない負い目もあったけれど、そんなことよりも、部活に携わるおとなの方々に対しての尊敬と、忠誠心だけで生きていた。5年間同じ部活をしていても、毎日新鮮なきもちだったし、勉強だった。敬うことを教わったし、楽器が上手になっていくことが嬉しかった。自己表現の場だった。共感覚を強く感じたのも、この頃だったように思う。合奏のときは特に音に色がついていたし、かたちが見えていた。全身でなにかを感じられていた。

あっという間に一年が過ぎ、高校3年生の春、問題が起きた。

休憩されましたか?3年生~卒業までは地獄でした。でも、一番読んでいただきたいところかもしれません。

わたしの所属していた部活は、引退がなかった。高校卒業が、引退だったので、最後の1年をかみしめて過ごしたかった。
それなのに、きーと、のんが、飲酒したことが部活内で話題になって、先生のところまで話がいってしまった。その流れで、停学になり、5年間やってきた部活をやめてしまった。
ショックだった。5年間、家族よりたくさんの時間を過ごしてきたのに。最後の1年なのに。
わたしも高校2年生のとき、クラブにも行ったし、飲酒もした。そのことは、どうして問題にならないのか、と、部活内の同級生が、こそこそ言っていることに気付いていたし、じぶんが一番わかっていた。だから、顧問の先生に自首をしにいった。部活もやめるし、学校も停学にされるべきだ、と。

おまえは、もう1年も前のことだし、そうして反省しているなら、もういい。そもそもおまえが、部活やめたら、後輩たちはどうするんだ、誰がおまえのパートの後輩の面倒を見るんだ。

顧問の先生は、こう言った。一言一句正しいとは言えないけれど、こういったニュアンスのことを、強く、言った。親のことなども知っていたからか、顧問の先生は、わたしに優しかった。
だから、なにも言い返せなかった。それと同時に、きーと、のんに対して、申し訳なかった。わたしだけごめんね、って。部活の同級生たちには、白い目で見られ続けた。
このとき、かっちゃんは部活に残っていたけれど、きーがやめたことによって、精神が保てなくなってしまい、数ヶ月後にはかっちゃんも辞めた。仲の良かった三人がいなくなってしまって、わたしはひとりになった。地獄の一年だった。
それでも、顧問の先生はことあるごとに、わたしのこころを助けてくれた、優しかったし、厳しかったけれど、絶対に殴ったりはしなかった。他の同級生が、わたしに冷たかったのも、なんとなく贔屓されているような様子だったからかもしれない。

部活をやめてしまった、きー、のん、かっちゃんとは、なんとなく疎遠になった。おとなになってから聞いたはなしでは、あのとき、ゆめと仲良くしていると、辞めるほうに引っ張ってしまいそうだったから、ゆめには続けてほしかったから、と言われた。
そんなこと知らなかったから、ひとりで苦しかったけど、みんなわたしに、部活しかないことをわかってくれていたこと感動した。
疎遠になったので、クラスでも、わたしはひとりでいることが多くなった。教室移動がしんどかった。でも、その頃には、卒業したら東京にいくことを決めていたので、先のことばかり考えていた。
楽器を教えてくれていた先生の近くに行きたかった。入りたい楽団も決めていたし、情報収集もしていた。 母は、金銭的な援助を一切しないことを条件に許してくれた。最初から期待もしていなかったし、壊れた家族から離れることを望んでいた。

夏休み直前の部室で、同級生たちがなんとなくわたしのことを気に入らない雰囲気でいたので、もう、なにもかもいやになった。かばんも持たずに部室を出て、自宅に帰った。定期券とテレホンカードだけはいつもポケットにあった。珍しく母親に連絡をして、もう学校もやめるし、部活もやめる、と話したら、したいようにすればいい、と言ってくれた。いい加減な母親だけど、昔からそういう自由な、無責任な感じだった。

その夜、部活の同級生たちが家にかばんを持ってきた。なにを話したかは覚えていないけれど、翌日部活へ行った。顧問の先生にしぬほど怒られた。あとにも先にも、あんなに怒られたことはなかったけれど、あの日を最後に、辞めるのをやめた。最後までやり通した。途中でもたくさんしんどいことはあったし、学校じたいはずっと楽しくなかった。でも、部活があって、本当によかった。

暑い日も寒い日も練習をしたこと、全国大会の雰囲気や、仲間たちと気合いを入れるために背中を叩きあったことや、尊敬する先生に、頭をなでてもらったこと、顧問の先生にパワーをもらったこと、なにもかも忘れられない6年間だった。
最後の1年が一番つらかった。6年過ごしたはずの部活の同級生とは一切連絡をとっていない。でも、きー、のん、かっちゃん、とは、卒業後も会うことはあった。この違いはなんだろう。

卒業のときに、もっと人に甘えなさい、と言われたこと、感受性が豊かなまま、おとなになってね、と言われたことも未だに忘れていない。

この学校で、この部活をしてなければ、とっくに学校も辞めていたと思うし、いま以上に、ろくな人間にならなかったと思うので、本当に、これだけはよかったと思う。

この段階で、高校の奨学金が残っていることを知らなかった。母が払ってくれていると思っていた。甘かった。


部活や先生方のお陰で、夢が見つかって、卒業後は東京へ。

なにもしらない娘から、おとなになります。お金問題も発生します。 メンヘラも発揮し始めます。
こうご期待!!!!?!?!!?!
-_-_-_-_-_-_-_-_-_

はーーー、高校編。は、ほぼ部活でしたね。
でも、本当によかったんです、やっていて。これだねは、後悔がありません。

長くてすみません。書き出すと、切れ目がわからなくなってしまうんですよねぇ。

次は18ー22歳くらいかなぁ、、、いや、ちょっと長くなりすぎてしまいそうなので、18ー20歳くらいにしたいですね。

18ー20 上京、社会人、吹奏楽団、横浜に移住、はじめてのお付き合い、お金、水商売、アメリカ
21 アメリカ、お金、同棲
22 東日本大震災、メンヘラ、水商売
23ー24 水商売、不倫
25 水商売
26 某役者、メンヘラ、地元へ帰る
27 また上京、バンドマン
28 メンヘラ、バンドマン
29 メンヘラバンドマン
30 メンヘラ、バンドマン、地元へ帰る

目次のようにすると、こんなかんじになります。波乱万丈でした。許される範囲で綴りますね。
それでは、また。

来てくださって、ありがとうございます。なにか感じていただけましたら、今後もなんとなく、ふらっと、見に来てやってください。