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自分の性格を知る

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#脊椎側彎症

私の背骨のはなし その8

私の背骨のはなし その8

脊椎側彎症だとわかる以前から、運動はあまり得意ではなかった、と思う。運動神経が鈍い、という以前に、早生まれで、5歳までは一人っ子。のんびりしていたので、今となって考えてみると、人と競う雰囲気のスポーツにピンと来ていなかったということもあるかと思う。それにしても、幼稚園の運動会では、よーいドンの太鼓が鳴っても、スタートしてこないわが子を見つけて、走りなさーい!と念を送ったり、たらたらと走り出したと思

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私の背骨のはなし その7

私の背骨のはなし その7

ジョホールバルでお気に入り、というか、仲良しのマッサージのおばちゃん、中華系マレーシア人のアイリ―さん。キャメロンハイランドに引っ越すときには後ろ髪引かれて、連続で会いに行った。キャメロンに一緒に引っ越さないか?とも誘った。いつもマッサージしてもらいながら、いたたーっ、と叫びつつ、身の上話や、ご近所の面白ネタなどで大笑い。

マッサージのおばちゃんにしては英語が得意だけれども、すべて通じるわけでは

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私の背骨のはなし その6は番外編

私の背骨のはなし その6は番外編

40代は、マレーシアでの3度の引っ越し、4軒の家での生活、途中から家族になって早5年になろうかという三猫士とともに過ぎた。戌年生まれで、もともとは犬が大好き。15歳の時、学校帰りに地元の東急ハンズに何度も通い、親も説得し念願叶って、自分のお小遣いで、今でいう譲渡のような形で1000円(男の子は2000円、女の子は1000円だった記憶)で買ってきた雑種の子は、あとちょっとで20歳というところまで長生

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私の背骨のはなし その5

私の背骨のはなし その5

マレーシアのジョホールバルで暮らして3年半。中学校は日本で通う、と自ら決めた子ども。さてと、これは帰国子女受験というヤツだな、と気づいたその時、橋を渡ってシンガポールにある日本の塾に行ってみると、今からですか?と驚かれながらも、親子して、どこか入れるでしょう、何とかなる、と。付け焼刃なりに子どもは頑張りを見せ、一人帰国、晴れて日本の女子中学生になった。

母は、ジョホールバルにあったインターナショ

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私の背骨のはなし その4

私の背骨のはなし その4

結婚しますので、と会社を辞めたものの、半年後には自分で名刺を作って働き始めていた。積極的に仕事が続けたかったわけではないが、お誘いやご依頼には、いそいそと、そして嬉々として動き出してしまう質。一つの会社に所属していたうちは出来なかったような仕事を、フリーランスとしてやらせていただく楽しさ。というのを満喫していたのも束の間、そのうちの一つの会社の日本法人を立ち上げることに。

大学院時代の専攻、人事

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