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2020年8月の記事一覧

私の背骨のはなし その6は番外編

私の背骨のはなし その6は番外編

40代は、マレーシアでの3度の引っ越し、4軒の家での生活、途中から家族になって早5年になろうかという三猫士とともに過ぎた。戌年生まれで、もともとは犬が大好き。15歳の時、学校帰りに地元の東急ハンズに何度も通い、親も説得し念願叶って、自分のお小遣いで、今でいう譲渡のような形で1000円(男の子は2000円、女の子は1000円だった記憶)で買ってきた雑種の子は、あとちょっとで20歳というところまで長生

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私の背骨のはなし その5

私の背骨のはなし その5

マレーシアのジョホールバルで暮らして3年半。中学校は日本で通う、と自ら決めた子ども。さてと、これは帰国子女受験というヤツだな、と気づいたその時、橋を渡ってシンガポールにある日本の塾に行ってみると、今からですか?と驚かれながらも、親子して、どこか入れるでしょう、何とかなる、と。付け焼刃なりに子どもは頑張りを見せ、一人帰国、晴れて日本の女子中学生になった。

母は、ジョホールバルにあったインターナショ

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私の背骨のはなし その4

私の背骨のはなし その4

結婚しますので、と会社を辞めたものの、半年後には自分で名刺を作って働き始めていた。積極的に仕事が続けたかったわけではないが、お誘いやご依頼には、いそいそと、そして嬉々として動き出してしまう質。一つの会社に所属していたうちは出来なかったような仕事を、フリーランスとしてやらせていただく楽しさ。というのを満喫していたのも束の間、そのうちの一つの会社の日本法人を立ち上げることに。

大学院時代の専攻、人事

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私の背骨のはなし その3

私の背骨のはなし その3

中学2年から高校を卒業するまでは、ほぼ毎日、大学時代も通えるときにはできるだけ、そのおじいさん先生の整体を受けた。明らかに、盛り上がりつつあった右の肩甲骨周りと左腰の筋肉は柔らかくなり、山もなだらかになって、映画を1本動かずに座ったまま見ることが辛かった痛みも和らいだ。中学時代から好きになったスキーは、高校、大学と続け、日常のトレーニングや冬から春にかけての雪山での生活でも全く問題なく過ごせるよう

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私の背骨のはなし その2

私の背骨のはなし その2

「ミルウォーキー装具」という名の鉄鋼コルセットのような鎧を着て通学するようになった。徐々に慣れてはいったものの、中学2年生女子が普通の学校生活を送るには、時々ちょっと難しい場面があった。着替えをしなくてはならない体育の授業は、身体が曲げられないので時間がかかり、授業に遅れることが多かった。先生に説明しても、遅刻するな!言い訳するな!と怒られ、唇を噛んだ。走ったりボールを投げたりも、元々苦手な上に、

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私の背骨のはなし その1

私の背骨のはなし その1

中学2年のことだった。風邪で咳が止まらなかったからか、健康診断だったか忘れたが、かかりつけのクリニックで肺のレントゲンを撮った際に写った背骨を見た医師が、あ~、脊椎側彎症だね、整形外科で診てもらった方がよいですよ。とかなんとか、そんなことを言われた。急に背が伸びたりすると女の子はよくなるんだよね~、と。ちょうどその頃、背の順でいつも真ん中辺りから、後ろの方になったのだった。

大学病院で脊椎側弯症

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