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私の背骨のはなし その1

中学2年のことだった。風邪で咳が止まらなかったからか、健康診断だったか忘れたが、かかりつけのクリニックで肺のレントゲンを撮った際に写った背骨を見た医師が、あ~、脊椎側彎症だね、整形外科で診てもらった方がよいですよ。とかなんとか、そんなことを言われた。急に背が伸びたりすると女の子はよくなるんだよね~、と。ちょうどその頃、背の順でいつも真ん中辺りから、後ろの方になったのだった。

大学病院で脊椎側弯症の専門医に診てもらい、レントゲンに写った背骨の湾曲の角度を測り、これぐらいの場合、手術は必要ないが、装具を作製して毎日できるだけ長く装着しておくことが唯一の治療(現状より悪化させない)方法、との説明。体育など身体を動かす時も、寝るときも。やっと歯列矯正の器具がはずせたと思ったら、今度は身体なのか、と目の前が真っ暗になった。朝の通学電車の中で時々一緒になるセーラー服の学校の人が、首のところから見える装具を付けていたことを思い出し、あれはコレだったのか、と。ジロジロ見てしまっていたかもしれないなと思い出し、心の中でごめんなさいと呟いた。

担当の医師以外にインターンが大勢、ノートを片手に、患者の私を取り囲みジーっと見つめている状態での、ほぼ裸での検査や診察は、思春期の私にとっては悪夢でしかなかったし、涙もたくさん流したが、その話はここでは割愛する。それはその時だけのことだった、と思えるようになったから。

それから、装具着用生活が始まった。このあたりの話は、今(から)、脊椎側弯症と付き合っている人たちと共有できたらよいかもしれない、という思いで、思い出せる限り細かいことも書いておこうと思う。まず、基本は24時間装着。私の湾曲は上から右の肩甲骨の方に大きく反対向きくの字に曲がり、その反動で腰の左方向にもぐーっとくの字に曲がって、それぞれ右上と左下の筋肉が盛り上がっていた。幸い、首の方は曲がっていなかったので、装具は恥骨から上、両脇の下までのものになった。

装具は、背骨をできるだけ真っすぐに伸ばした状態を維持するために作られているので、まず腰骨と恥骨の周辺をプラスチック材で身体の形に模ったもので抑え付け、恥骨を下方向に押し下げた状態で維持するようになっている。そのプラスチック材には、背中の中心の位置に鋼鉄のまっすぐな軸になる部分が取り付けられており、そこにネジで布と皮革でできたベルトが右の肩甲骨のあたりと、左腰あたりに取り外しができるようになっていて、そのベルトをぐっと引き寄せて、盛り上がった筋肉を本来脊椎があるべき場所の方向に引き寄せるようにして、できるだけきつい位置のフックネジにひっかける。左右ともにそのようにして、くの字に湾曲した骨をまっすぐな位置に近づけるようにひっぱっておくようになっている。

布と皮革でできたベルトには、パッド状のものがついていて、それが引き寄せたい部分にのるようになっているのだが、それもベルトも脇の下の柔らかい皮膚や腰に擦れて擦り傷が出来たり、汗をかいてべとついて、痛む。真ん中の鋼鉄の支柱のようなものは、モノを拾ったり靴の脱ぎ履きなどで身体を前屈しようとすると胸のあたりに刺さるし、恥骨を抑えているプラスチックは、いくらガーゼやタオルを挟んでみても、絶えず内出血させ、皮膚を切ることもあった。

しかし、それらの身体の痛みよりも痛かったのは、通学の電車の中での視線だった。満員電車では、周りの人と身体が触れる。硬いプラスチックや鋼鉄がコツンと当たると驚いたような顔をされる。キモチワルイのだろうな、と思うと泣きたくなった。さらに、装具が毎日触れるので、制服は内側から擦り切れ、何度も買い替えた。歩いたり、授業で座ったり立ったりしていると、いくつもある背中のネジが緩んできて、洋服の上からネジを締めるのにはなかなか手が届かず、誰かに頼んで手伝ってもらわねばならなかったことも辛かった。

しかし、装具を付けていなくても左の腰の痛みが強かったこともあり、成長が止まるまで、医師の言い方では、レントゲンに腰骨がしっかり写るようになるまでは、これを付け続けるしかないのだと暗澹たる気持ちで家と学校の往復をする日々だった。

つづく。





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