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本質的じゃなくても良くないか

「自分の機嫌は自分で取る」

よく見かけるフレーズだけれど、こういう言葉が受け入れられ、自分自身も使いたくなる気持ちはけっこう分かる。

確かに、自分の機嫌は自分で取りたい。

ぼくはこの言葉を誰が初めに言ったのかもいつどこで発信されたのかも、実は知らない。

だから、勝手に自分なりに解釈するけれど、自分の機嫌を自分で取るのはそれほど難しくないと思う。

ちょっとうまくいっていない時、嫌なことがあった時、好きなものを食べたり、好きなエンターテイメントに触れたり、思い切って見た目を変えてみたり。

色んな機嫌の取り方があると思う。

「そんなのは対症療法でしかない、意味がない」という声が聞こえてくる。

確かに、一時的な消費等で自分の機嫌を取ることができても、根本的な悩みの解決には繋がっていない。



別にそれでも良くない?と思ってみたりする。

「本質」や「そもそも」といった言葉は、ぼくらに気づきを与え、興味関心を引く。

それが「自己啓発」というやつなのかもしれない。

「本質」や「そもそも」という抽象的な言葉はなぜだか魅力的に見えるし、自分だけが本質にたどり着いたような気がして、得意げになれる。

もちろん、本質を見極めたり向き合うことは大事だと思う。

けれど、全ての物事は本質から始まるとも限らない。

「なぜ勉強するのか?」

それを説けば、納得すれば、果たしてみんな勉強するのだろうか。

勉強のやる気が出ない時、勉強をする本質的な理由に向き合ったら、やる気は出るのだろうか。

結局、あと1時間頑張ったら好きなテレビを観れるとか、テストが終わったら友達との遊びの予定があるとか、そういうことでご機嫌になって頑張れたりする。

そうやって頑張り続けたら、いつしか目標や続ける理由みたいなものができて、“自分なりの本質”に辿り着いたりするものだ。


たった今、目先の自分すらご機嫌にできない状態で、もっと大きな悩み、葛藤に向き合えるのだろうか。

たとえ、対症療法でしかなかったとしても、コンビニスイーツを食べても事態は何も好転しないと分かっていても、ぼくらは今ここに存在する自分自身をご機嫌にすることしかできない。

本質ばかり口にして中身が伴わないくらいなら、決して本質は語れずとも、目先の自分をご機嫌にし続けられる自分でありたい。


「本質的でなくても良いという本質」の話でしたとさ。

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