おがたのよはく

時々、10年後の自分に宛てて文章を書いています。

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最近の記事

非合理と余白、秋めいて。

曲がりなりにも二十数年生きてきて、良くも悪くも、自分のことを客観視できてしまっている。 「いつもの自分なら、きっとこっちを選ぶだろうな」 「あ、また押し負けそうになってこっちを選ぼうとしている」 二十数年生きていると、今まで何となく「大人がすること」だと思っていたことがそうではなくなって、いよいよ自分も向き合わねばならないことに変わっていく。自分は自分のことをまだ「大人」だと認めたわけではないのに。子どもと大人の狭間を、この曖昧な境界線を、いつまでも何となく漂っていたいの

    • 儚くない、春。

      今年に入ってから日記を書くようになった。肩の力を抜いて書いた文章の頼りなさというか、とても自分の文章とは思えないくらい知性の欠片もなくて、たまに見返しては一人でニヤニヤしている。 〇〇が美味しかったとか、××にちょっと苛立ちを覚えたとか、△△さんのあの時のあの発言にモヤモヤしたとか、「日記」と表現するのも躊躇われるくらい、本当に何も考えず言葉を並べてみている。 こうして文章を書くときはやはり肩と指先に力が入ってしまう。いくらありのままを表現しようと思っても、ちょっとカッコ

      • 頭によぎっては消えていく日々。金木犀の香りに紛らわせて。

        金木犀の香りみたいに、あんまり思い出したくない過去の恋愛とか、やらなきゃと思ってやれていない仕事のことが、ふと頭によぎっては消えていく。 頭によぎるだけで、過去は変わらないし仕事が減るわけでもないけれど、ほのかに心地良い。 - 最近、何だか「今」に集中できていない。 頭に何かがよぎっては消えていく、それがまた頭によぎってはまた消えていく、波打ち際に立ち尽くして、押し寄せる波をただぼーっと眺めているような日々。 進展はない。けれど、後退も停滞もしていない。 そういう

        • 点と点が線にならなくても。いつかの自分が、都合よく、良い感じに、解釈してくれる

          「真夏のピークが去った」と天気予報士がテレビで言って久しいけれど、あいにく、自宅にテレビを置いていないから分からない。 テレビを置かない生活を始めてから、7年。 2ヶ月に1度くらいはこうして腰を据えて文章を書くようになって、2年。 旧友と疎遠になって、かれこれ、何年になるのだろう。 毎日を精一杯生きている、と言えば聞こえは良いけれど、良くも悪くも日々を何となく生きていて、今日という「点」をむやみに打ち続けているだけのような日々。 だから、ふとした時に「あれからもう何年経

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        • #余白 #ひと休み
          32本
        • #アラサー #20代
          22本
        • #自分探し #自分らしさ #何者
          49本
        • #書く
          56本
        • #迷い #選択 #決断
          37本
        • #私
          31本

        記事

          定点観測した夏、あの頃、あの選択。

          昔は「夏を駆け抜ける」という感覚だったけれど、今は「夏に追い抜かれている」という感覚。 夏と聞くだけで待ち遠しかったし、一分一秒も無駄にしてたまるか、なんて鼻息を荒くしていたけれど、夏が通り過ぎていくのを定点観測しているのも案外悪くない、と思えるくらいには歳を重ねた。 昔深く関わった人、濃く関わった人とは、それが故なのか、再び関わることをどこか後ろめたく思ってしまう。 喧嘩別れをしたわけでも、さよならもなしに別れたわけでもない。後ろめたさがあるのは、自分自身が思い描いて

          定点観測した夏、あの頃、あの選択。

          いつか止む雨なら、傘ではなく雨宿りを

          季節の変わり目に誘われるように毎度文章を書いていたつもりだったけれど、今年の梅雨には不意打ちを喰らってしまった。すっかり油断していた。 じめっとした日々に塗り重ねられる名前のつけ難い感情を、言葉にして、誰にも配慮せず好き勝手に表現して、ネットの海に放り投げてやろうと思っていたのに、いつの間にか夏。 少しでも梅雨の時期を前向きに過ごそうと、奮発して雨用のレザーブーツを新調してみたりしたけれど、晴れの日に試し履きしたっきり出番はなかった。 そういえば去年も、少しでも雨の日を

          いつか止む雨なら、傘ではなく雨宿りを

          だんだんと曖昧になる東京と故郷の境界線

          目を覚ましたのは、今日が仕事だからでも朝に何か楽しみな予定があるからでもない、いつも通りの時間に時計が鳴ったから、ただそれだけだ。 東京は、あえて「東京は」と言わせてもらうけれど、密度が高くて余白がなくて、ただそこに居るだけで窮屈な気持ちになる場所だ。 「俺の地元は何にもないよ」なんて半分冗談、半分本気で言っていたけれど、今思えば、何にもないのが良くてそれで十分だった。 やけに広い道路、空間を持て余した公園、高さのない建物群。 生まれ育った場所が東京ではないからこそ、

          だんだんと曖昧になる東京と故郷の境界線

          「あけましておめでとう」も言えなくて、春。

          「あけましておめでとう」のたった一言さえ綴ることなく、気づけば桜は早々に散っていて、いつの間にか春の輪郭もぼんやりしてきている。 相変わらず、暖かい日もあれば肌寒い日もあって、春と冬の終わりを行き来しているような日々だけれど、自分自身も例に漏れず、自宅と職場を行き来しているだけの日々。 毎年、桜を見ると、初めてそれを目にしたかのような感覚に陥る。 だからなのか分からないけれど、桜の存在が無条件に嬉しい。 面倒くさいこともそうでないことも、知りたくなかったこともそうでな

          「あけましておめでとう」も言えなくて、春。

          暇つぶしみたいだった日々が、今さら愛おしい

          12月26日みたいな、特に記録してもいない記憶とか、高校時代の毎日、大学1年生の秋から大学2年生の夏くらいまでの間のような、ただの暇つぶしみたいな日々が、いまさら愛おしく感じられたりする。 気づけば、暇つぶしさえまともにできなくなってしまっていた。 何の予定も目的もなく家で過ごしたり、絶えず再生される動画コンテンツをただ受動的に消費したりしてみても、どこかかつての暇つぶしとは異なる。 昔は、そんな1日を過ごしても罪悪感も危機感もなく心の底から暇つぶしができていたけれど、

          暇つぶしみたいだった日々が、今さら愛おしい

          「あの頃に戻りたい」と思えるほどの素敵な人生とか

          夏なんてとっくに過ぎたはずなのに、両耳には容赦なく夏の定番ソングが流し込まれていく。 季節に合わせてプレイリストを更新するような丁寧な暮らしはできていなくて、というより、そもそもプレイリストを作成するようなまめなタイプではない。 季節の変わり目では決まって体調を崩すタイプで、特に夏から秋に変わるタイミングにはめっぽう弱い。今年も案の定、つまらない風邪を引いた。 「去年の今頃も風邪引いてたっけ」なんてことを思い出しながら、「ちょうどあの人と出会った頃だよな」とか、「あそこ

          「あの頃に戻りたい」と思えるほどの素敵な人生とか

          都会の喧騒から離れても、都会にいた

          都会の喧騒から離れても都会にいるような日々。 人混み、不必要な人生に対する焦燥感、不必要な言葉、リアルという喧騒から逃れようとして辿り着いた世界もまた、自分にはおそらく必要のない言葉や写真、映像で溢れていた。 地元、故郷。 幸い、そう呼べる場所があるけれど、いつしか、本当の自分でいられる場所に帰ってきた安心感よりも、優越感に近い安心感を感じたい自分がいた。 「ここなら都会で目立てない自分でも目立てる」 「あぁ、相変わらずここにいる人たちは野心も承認欲求もない」 どこ

          都会の喧騒から離れても、都会にいた

          ただ濁っているだけのような、準透明とも言えるような

          「私には継続力があります」 まだスーツに着られていた頃の渾身のアピールポイント。確かに、引退や卒業以外で何かを途中で辞めたことはないし、物事を途中で放棄して人様に迷惑をかけたこともない。 それなのに、当時の僕には「継続力がある」という自分の口から発せられる言葉がどことなく違和感に満ちていて、胡散臭いもののように感じられた。 そういえば、僕はリクルートスーツを購入したこともなければ、学生時代に「自分は何者か」と悩んだこともなかったし、そもそも就活自体をしたことがなかった。

          ただ濁っているだけのような、準透明とも言えるような

          特別への執着を手放す、大人になるということ

          「これから先、毎日この道を行き来するのが人生なのか」 ふとそう思った時が“大人になった瞬間”なのだとしたら、僕らはようやく大人になれたのかもしれない。 あの時思っていたほど、死んだ顔したサラリーマンを満員電車で見かけることはなかったし、東京で消耗した大人にも出会わなかったし、パソコン1台で稼いでいる大人だけが憧れの対象でもなかった。 一人でカラオケに行く、好きな人に告白する、大学を辞める、仕事を辞めて転職する、自分なりに一歩踏み出した経験は数多あるけれど、今となって振り

          特別への執着を手放す、大人になるということ

          流れに身を任せて、人生を漂う

          僕らは人間だから「何も感じない」なんてことはないのだけれど、自分の感情や感覚を一々記憶してはいられない。 だから、こうして文章を書いて、嫌でも自分が「日々何を感じて生きているか」を思い起こす機会を作っているのかもしれない。 言葉が全く出てこなくて「どうして書き始めちゃったんだろう」と後悔することも少なくないし、感覚をうまく言葉にできなくて都合の良い言葉に逃げてしまうことだってある。 そんな苦悩を経てまでして書くことが果たして本当に楽しいと言えるのか、いまだに疑問は消えな

          流れに身を任せて、人生を漂う

          どんなに愛おしい今日も、明日には過去に変わってしまう

          東京。無慈悲に見下ろすビル群、煌々と光る眠らない街。 この街で育ったわけでもないし、この街に救われたわけでもないし、この街に恩を返したいなんて間違っても思わないけれど、出会いも、別れも、あなたの喜んだ顔も、切ない顔も、いつも背景はこの街だった。 「今を大切に生きたい」と願って止まないけれど、いつも「今」を掴み切れない、するりと手から抜け落ちてしまう。 思わずガッツポーズをしてしまうような喜びが込み上げる瞬間、気心の知れた友人と顔を赤らめるひととき、ずっと前から待ち遠しく

          どんなに愛おしい今日も、明日には過去に変わってしまう

          「感情的になれない」と感情的になる週末

          週末は決まって、行ったことのないカフェに足を運ぶようにしていて、そこでこうして文章を書いている。 SNS映えするような何かを食べるわけでもなく、おしゃれな空間を写真に収めるわけでもなく、友人と一緒に時間を過ごすわけでもない。 ただ気になる場所へ一人で足を運び、アイスコーヒーを注文し、パソコンを広げ、文章を書き、ネットの海へ放り投げる、言葉にしてみると何とも味気なく、そんな自分の人間性がどう伝わるのか、いささか不安である。 感情をあまり表に出せない。 いや、出せないので

          「感情的になれない」と感情的になる週末