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#自分探し #自分らしさ #何者

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だんだんと曖昧になる東京と故郷の境界線

目を覚ましたのは、今日が仕事だからでも朝に何か楽しみな予定があるからでもない、いつも通りの時間に時計が鳴ったから、ただそれだけだ。 東京は、あえて「東京は」と言わせてもらうけれど、密度が高くて余白がなくて、ただそこに居るだけで窮屈な気持ちになる場所だ。 「俺の地元は何にもないよ」なんて半分冗談、半分本気で言っていたけれど、今思えば、何にもないのが良くてそれで十分だった。 やけに広い道路、空間を持て余した公園、高さのない建物群。 生まれ育った場所が東京ではないからこそ、

「あの頃に戻りたい」と思えるほどの素敵な人生とか

夏なんてとっくに過ぎたはずなのに、両耳には容赦なく夏の定番ソングが流し込まれていく。 季節に合わせてプレイリストを更新するような丁寧な暮らしはできていなくて、というより、そもそもプレイリストを作成するようなまめなタイプではない。 季節の変わり目では決まって体調を崩すタイプで、特に夏から秋に変わるタイミングにはめっぽう弱い。今年も案の定、つまらない風邪を引いた。 「去年の今頃も風邪引いてたっけ」なんてことを思い出しながら、「ちょうどあの人と出会った頃だよな」とか、「あそこ

ただ濁っているだけのような、準透明とも言えるような

「私には継続力があります」 まだスーツに着られていた頃の渾身のアピールポイント。確かに、引退や卒業以外で何かを途中で辞めたことはないし、物事を途中で放棄して人様に迷惑をかけたこともない。 それなのに、当時の僕には「継続力がある」という自分の口から発せられる言葉がどことなく違和感に満ちていて、胡散臭いもののように感じられた。 そういえば、僕はリクルートスーツを購入したこともなければ、学生時代に「自分は何者か」と悩んだこともなかったし、そもそも就活自体をしたことがなかった。

絶望の後にしか現れない希望

あの時車窓からぼんやりと眺めていた、ただの風景でしかなかった街。 「ここに住めたらきっと通勤は楽だろうな」 「ここに住めたら終電を気にせず遊べそうだな」 気づけば今、その街に住んでいる。 あいにく、終電を気にせず残業をする日々だけれど。 望んだ未来もあれば、望まなかった未来もあった。 そのどちらも確かにあったけれど、今、そのどちらでもないような気がする。 決してシナリオ通りとは言えない、そんな日々を鬱々とした気持ちで埋めたこともあった。 思えば、初めからシナリオ

"焦燥"というエンジンに頼りたくない

何かを始める、何かを頑張る、いつだって自分を衝き動かしてきたのは「焦燥感」だった。 絶妙なタイミングで湧き上がったあの焦燥感がなければ、今の自分はなかったのかもしれないけれど、僕には焦燥感というエンジンしか搭載されていない。 そんな焦燥感と切っても切り離せないのが、他者との比較だ。 「他者」 一体、誰を思い浮かべているのだろう。誰とそんなに競い合っているのだろう。 不幸中の幸いと言って良いのか分からないけれど、他者と自分を比較しても劣等感は感じない。もちろん、他者を

言えないこと、書けないことこそ向き合ってみる

人に言えること、言えないこと。 noteに書けること、書けないこと。 それらの割合ってどんなもんだろう。 言えなかったり書けなかったりする理由が「本音だから」なのだとしたら、自分の本音こそ向き合ってみる価値があると思う。 言えなかったり書けなかったりする理由が「周りの反応が怖いから」なのだとしたら、“周りを気にする自分”という存在を認識できる。 誰しも言えないことの一つや二つあるだろうし、それをうまく引き出してくれる人もまたいるだろうけれど、表に出せない気持ちや感情は

自分の言葉も、結局誰かの言葉なんだよな

どうあがいても、自分の人生が誰かの人生を後追いするような人生になってしまうのは、他者の影響を少なからず、いや大いに受けているからだ。 突き詰めると、「言葉」だ。 自分の人生も、自分という人間も、言葉によってつくられている。 僕らは言葉を巧みに操っているようで、実は、言葉に操られているとも言える。 文章を書いていると、「結局自分の言葉も、誰かの言葉なんだよな」と卑屈になってしまう時がある。 「結局、誰かの言葉をコピー&ペーストしているだけなのかもしれない。レポートに追

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

重なる矛盾、矛盾にまみれた自分

「自己矛盾」は辛い。 いわゆる真面目な人であればあるほど、自己矛盾はひどく苦しい。 「迷っているなら一歩踏み出してみなよ」 「人と同じは嫌なんだよね」 自分が一歩踏み出せていない時に他人にアドバイスしてみたり、人と同じは嫌と思いながら、誰かの敷いたレールから外れないよう必死な自分。 言動と行動、思いと現状、それらが噛み合わなくなってくると、正確には、噛み合っていないことを自覚してしまうと、自己矛盾にばかり意識が向いてしまう。 僕自身も、矛盾してばかりだ。 じっくり

"自分を知る"だけじゃ、足りないんだよな

自己分析、自己理解、自分探し。 “自分を知る”という経験や感覚はすごく大切だ。 けれど、自分を知っただけでは、現状は大きく変わらないかもしれない。 自分の価値観、性格、物事への取り組み方など、あらゆる思考パターンや行動パターンを把握できても、一時の達成感やアハ体験で終わってしまうかもしれない。 “自分に集中する” 自分と向き合うなら、ここまで持っていきたい。 今迷っていること、一歩踏み出せずにいること、曖昧にしていること、それらと一つ一つ向き合って、意思決定をして

自分らしさだと思ったら、ただの憧れだった

自分が思い描いている“自分らしさ”は、結局誰かに対しての憧れだ。 SNSで見かけた他人の“その人らしさ”を、自分らしさに重ね合わせているだけかもしれない。 「パソコン1つで時間や場所に囚われない生き方をしたい」 「自分の好きなことで、趣味の延長のような感覚で、お金を稼ぎたい」 ありのままの、自然体の、そんな自分でいたい。それが、今自分が抱える生きづらさとの決別だ。 自分の望む生き方、あり方、それらを体現した姿は、本当の自分の姿なのだろうか。 今、自分の好きを片っ端か

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

周りの目を気にしているようで、自分の目を気にしているだけだった

「周りの目が気になる」とはどんな状態なのだろうか。 周りの目が気になる時ほど、周りは自分を気にかけていなかったりする。 自分が他人の全てを気にしないように、他人も自分の全てを気にしているわけではない。 周りの目、それはつまり「自分の目」かもしれない。 自分自身の勝手な想像を、自分自身が勝手に気にしているだけだ。 「周りの目」の先に見ていたのは、実は自分自身で、周りの目を気にするということは、実は自分自身と向き合うということだ。 僕らは、周りからどう見られてしまうこ

受信より発信を増やすと、周りが気にならなくなる

周りが気になるからSNSアプリを消す、というのも一定の効果はあるように思うけれど、あまり根本的な解決にはなっていないかもしれない。 周りが気になってしまう状況を取り除くことはできても、周りを気にしてしまう“自分自身”はそのままだ。 もちろん、SNSを一切シャットアウトすることで、時間とともに周りが気にならなくなるのかもしれない。 ただ、結局、手持ち無沙汰な時間があると周りが気になってしまう。 僕らは、手持ち無沙汰な時間があると、どういうわけか「消費」に走ってしまう。