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「あの頃に戻りたい」と思えるほどの素敵な人生とか

夏なんてとっくに過ぎたはずなのに、両耳には容赦なく夏の定番ソングが流し込まれていく。

季節に合わせてプレイリストを更新するような丁寧な暮らしはできていなくて、というより、そもそもプレイリストを作成するようなまめなタイプではない。

季節の変わり目では決まって体調を崩すタイプで、特に夏から秋に変わるタイミングにはめっぽう弱い。今年も案の定、つまらない風邪を引いた。

「去年の今頃も風邪引いてたっけ」なんてことを思い出しながら、「ちょうどあの人と出会った頃だよな」とか、「あそこに行ったっけな」と、都合よく思いを馳せてしまう。

「あの頃に戻りたい」

と過去を懐古したことはない、とは当然言えるはずがなくて、あの頃は楽しかったとか、あの頃は無敵だったとか、少しでも油断すると考えてしまう。

今も今でけっこう充実していて不満もないはずなのに、過去をどうしても美化してしまう。思い出補正というやつなのだろうか。

過去にばかり囚われて今に集中しようとしない、向き合おうとしない人間は、世間では煙たがられるのかもしれない。

けれど、そんなにも誇れる過去や良き思い出として語れる過去があることは、たいそう羨ましくも思える。

人生なんて、どうせ死ぬ時には振り返ることしかできないのだから、「あの頃は良かった」と思えるのは、実はものすごく素敵な感覚なのかもしれない。

きっと、今この瞬間だって、未来の自分の言う「あの頃は良かった」の“あの頃”になっているのだろう。

そうやって懐古されてきた過去の積み重ねが、自分の人生という一つの物語を織りなす。

「今ものすごく良い人生を生きている」と自覚的に噛み締められる方が奇跡で、たいてい、後になって「あの時、実は良い人生を生きていた」とふと実感する。

「やっぱり、今を楽しむしかないな」

考える度そう結論づけるけれど、現実の自分はというと、平日は「目標」・「計画」という名のあるべき未来に囚われ、週末は、良くも悪くも先行き不透明な自らの人生像に憂いと望みを混ぜ合わせている。

そんな今さえ、どうせ「あの頃は良かった」と振り返ってしまいそうな未来の自分に、一種のサイコパシーを感じずにはいられない。

ただ、「あの頃は良かった」といつまでも言っている自分と、これからも言っていそうな自分に、実は、どことない安堵を覚えていたりもする。

「自分」だけはいつも変わらない、変わっているようで変わっていない。

今は決してそれを肯定できないけれど、そんな自分自身だって、未来の自分はきっと肯定してくれる。

人生の価値とか、生きる意味とか、いっそ未来の自分の宿題にしてしまえば良い。きっと、はなまるをつけてくれるだろうから。

すっかり冷え込んだ秋の夜、気分はしっとりしていても、そういう時に限って、夏の色鮮やかで開放的な景色を連想させるような曲ばかり流れてくる。

「プレイリスト、来年は更新しよう」

去年も一昨年も、そして今年も、決して実現されない小さな誓いを立てるのが、この季節の風物詩になりつつある。

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おがたのよはく
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