何者かであるために、僕らは自分をアラサーと呼ぶ
僕らは、自分が「何者であるか分からない」と日々悩みつつも、何とか何者かであろうとしている。
「アラサー」
というのも、自分が何者であるかを表現するための一つかもしれない。
僕らは自分が何者であるかを表現する時、
といった要素で、自分が何者であるかを構成していく。
そこに、「アラサー」や「独身」といった肩書きも付け加えて。
少しでも華を持たせたくて、検定や資格、学生時代に獲った賞を何とかかき集めて履歴書を埋めていくように、「何者であるか」を表現しようとする。
ああ、もしかすると、僕らは「何者かでありたい」という欲求に向き合っているのではなく、「自分が何者でもないこと」から目を背けようとしているだけなのかもしれない。
何者かでありたいというより、自分が何者でもないと分かってしまうことの怖さの方が大きいのかもしれない。
だから、肩書きや自分のオリジナルにこだわってしまう。
「何をしている者なのか」
にこだわり続ける限り、自分が何者であるかという問いに答えを出すのは難しい気がしてくる。それが「仕事」であれば特に。
やりたいことや天職は降ってこないし、仕事において自分が納得できるレベルで成功するにはそれなりに時間もかかる。
「何を感じ、どのように生きている者なのか」
年齢や職業だけでは決して見えてこない、自分を自分たらしめる要素が他にもたくさんあるはずだ。
それに、「何者であるか」というのは、過去から今に至るまでの選択の積み重ねでしかない。
あの時何を感じ、どんな意思を持って、どんな選択をしたのか。
その一つひとつが“生き方”となり、自分が何者であるかを示してくれている。
僕らはアラサーだけれど、ただのアラサーではないはずだ。
決してスケールの大きい経験でなくても、特別と言える生き方でなくても、
そこに、自分らしさがある。
「アラサー」という言葉だけでは、自分を説明するには全然足りないかな。