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高畑勲プロデュース作品として、「ラピュタ」「ナウシカ」を見る

いまやアニメファンなら誰しも神格化すらしてるジブリ作品だが、それでもコケた作品というのは幾つかある。
じゃ、最もコケたジブリ作品は何かというと、2016年作品「レッドタートルある島の物語」。
これは1億いかなかったらしい。
「高畑勲が絡んだ作品はコケる」伝説は安定感抜群のようで、逆に信頼できる。
そしてワースト2位が、意外なことに宮崎駿天空の城ラピュタ」なんですよ。
興行収入5億8000万とのこと。
まぁ、ジブリの旗揚げ作品だったからね。
正直、興収は「魔女の宅急便」がヒットするまでパッとしない感じが続いたらしい。
とはいえ、「ラピュタ」って凄い名作として認知されてるでしょ?
これはテレビ放映効果であり、あとビデオ(VHS)が結構売れたらしい。
いまや、日本国民で「ラピュタ」を一度も見たことない人は2割もいないと思うよ。
「宮崎アニメ人気ランキング」を見ても、必ずこの作品はTOP3にランクインしてるし。

「天空の城ラピュタ」(1986年)

「ラピュタ」といえば、このシーンだよね~。
アニメにおける定番、「美少女が空から降ってくる」は、この作品が起源だと思う。
化物語」「エウレカセブン」「とある魔術の禁書目録」etc、ヒロインたるもの、今となっては空から降ってきてナンボである。
と考えると、やはり「ラピュタ」の影響力って大きいんだろうな、と。
あと、「スチームパンク」に市民権を与えたのも、多分この作品だよね。
このスチームパンクというやつは、「古代文明」「呪文」等のファンタジー要素との相性がなかなかいい。
これがサイバーパンクともなると、間違いなく相性悪いでしょ?
ちょっと想像してみてくれ。
「攻殻」の草薙とバトーが滅びの呪文を唱えるところを・・。

       「バルス!」

・・しっくりこないだろ?
やっぱ、こういうのはサイバーパンクじゃなく、スチームパンクじゃなきゃダメなのよ。

とにかく、もはや「ラピュタ」は古典である。
文学におけるシェイクスピアみたいなものだといっていい。
今見ても作画に古さなど全く感じないし、構成や設定もパーフェクト。
しかし、ジブリ黎明期のこの作品が、なぜここまで完成度高いのか?
もちろん宮崎駿が凄いというのは当然のこととして、実はあともうひとつ、高畑勲がプロデューサーでついてたというのが大きいんだよ。
高畑さんは、あまりプロデューサーをやらない人である。
やった例としては、

・「風の谷のナウシカ」
・「天空の城ラピュタ」

厳密にいうと、このふたつだけじゃないだろうか(「レッドタートル」ではアーティスティックプロデューサー)。
いや、だからこそ、このふたつは不朽の名作となり得たのよ。

プロデューサー・高畑勲+監督・宮崎駿

このタッグは、まさに史上最強だったんだと思う。
宮崎駿の強烈なる作家性を高畑勲が冷静に制御し、ふたりの議論により理論武装が徹底的に固められていった。
そうやって作られた世界観ゆえ、「ナウシカ」にも「ラピュタ」にも、実は論理的矛盾がまるでない。
何度繰り返し見ても、粗といえるものがないんだ。
それどころか、ビデオで繰り返し見ることにより、設定の新発見があるなどの奥深さすらあって、またこのへんがアニオタ心を絶妙にくすぐったんだよなぁ・・。
こうして、興行的にはコケたとされる「ラピュタ」までもが、時間をかけて徐々に名作となっていったんだ。

よく、なぜ宮崎駿は「ナウシカ」の続編を作らないのか?という話が出るが、その固辞する理由は、映画制作時に高畑氏と詰めた世界観を守る為、といわれている。
実をいうと、原作漫画の方には終盤に若干の破綻があるのね。
あれほど映画では【文明vs自然】の対立構造を徹底して描いたのに、原作では

・ナウシカらは旧文明が生み出した人造人間
・王蟲、腐海ですら旧文明が生み出した人工の創造物

という衝撃的なセカイ構造の開示が終盤に盛り込まれてて、こんなの映画の続編とすると、【文明vs自然】の前提が根本から覆ってしまう。
それを誰より許さないのは、設定の鬼こと、高畑氏だろう。
宮崎さんもそれが分かってるから、少なくとも高畑氏ご存命のうちは断固として固辞してたんだよね。
正直、今はどうか知らんが・・。

「ナウシカ」原作の世界観

さて、話を「ラピュタ」に戻そう。
この「ラピュタ」の元々の企画についてだが、これは「未来少年コナン2」として宮崎駿がNHKに提出した企画書、「海底世界一周」というものだったらしい。
これを映画用にアレンジしたら、天空バージョンになったんだと思う。
で、映画「ラピュタ」公開後、なぜかNHKが今さら「海底世界一周」の企画書をガイナックスに託して、ゴールデンタイムのTVアニメ用に作らせたのが「ふしぎの海のナディア」なんですよ。
つまり、「ラピュタ」と「ナディア」は、その実体が腹違いの姉妹だということ。
面白いよなぁ。
モトは同じ企画書なのに、両作品は全く別のテイストになっている。

<主人公>

「ラピュタ」
「ナディア」

<ラスボス>

「ラピュタ」
「ナディア」

<海賊の一味>

「ラピュタ」
「ナディア」

しかし、両作品はなぜこんなにもテイストが違ってしまったのか?
・・これはねぇ、どうも話を詳しく聞いてみると、そもそも「ナディア」は全39話という尺が長すぎたらしいのよ。
モトの企画が、1クールぐらいで十分おさまる内容。
よってムリヤリ引き延ばす為、無駄な要素をどんどん盛っていったらしい。
特に後半の「島」編とか、プロットとしては全く必要なかったんだって。
ところが「ナディア」の中で視聴者に最もウケたのが、意外にも「島」編だったりしたわけよ(笑)。
これこそがポイント。
多分だが、もしもガイナックスの現場にプロデューサーとして高畑勲がいたとしたら(あり得ない話だけど)、絶対に「島」編は許さないよね?
というか、高畑氏なら、大ヒットした「エヴァ」だろうと全否定したのかもしれん。
それぐらい、彼は論理的破綻を断固として許さない人だから。
インテリ左翼って、そういうものなのよ。
だけど実際、「島」編も「エヴァ」も世間的にはウケた。
ここに、「正統なアニメ作り」と「市場のニーズ」に実は乖離があることが初めて露見したのかもしれない。

・正統なアニメ⇒ラピュタ(ジブリ)
・破綻したアニメ⇒ナディア(ガイナックス)

そもそも、「ナディア」は最初スチームパンクだったのに、最後の方には「宇宙戦艦ヤマト」っぽいノリのスペースオペラだったわけで。
だけど、あの破天荒さこそが「ナディア」最大の魅力だったし、私にはあれを否定することはできん。

なんていうかな、たとえば芸人でいうと、高畑氏は落語家の大師匠みたいな存在なのよ。
そうだな、仮に桂米朝あたりをイメージすればいいんじゃない?
その芸の継承は、伝統に根差した師弟関係がベース。

一方、ガイナックスは元々がインディーズ出身ゆえ、内弟子経験のない芸人という意味で、NSC出身のダウンタウンあたりをイメージすればいいのかもしれない。
いわば、ニューウェーブ。

多分、米朝師匠から見ればダウンタウンとか「基礎がおかしい」存在だろうし、イチから矯正し直したい対象だと思う。
だけどダウンタウンを矯正したら、クソつまんなくなるのは間違いない。
ようは、そういうことなんですよ。
じゃ、米朝師匠は「時代遅れのカビが生えた遺物」かといえば、それもまた全然違うんだわ。
米朝師匠は米朝師匠で、正直めっちゃサイコーなのよ。

つまり、「ラピュタ」「ナウシカ」はサイコー。
でも一方で、「ナディア」「エヴァ」もサイコー。

で、肝心の宮崎駿はどんなスタンスかというと、彼は米朝をリスペクトこそすれど、決して米朝一門ってわけでもないのよ。
ちゃんとダウンタウンのセンスも理解できる。
ただし、公に認めようとはしない。
という意味では、立川談志師匠みたいなもんである。

めっちゃ名人なんだけど、ただ妙にクセが強い・・。

しかし、「ラピュタ」「ナウシカ」という演目は、もはや古典落語みたいなもんである。
あらすじを分かってても、何度でも見られる。
ライブを楽しむ漫才とは、また別モノ。
いってみりゃ、「ラピュタ」「ナウシカ」は、談志・米朝がタッグを組んだ夢のような演目なのよ。
改めて、しみじみと味わいたいものである。


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