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人間が考える人間、という問いを多くの人に聞いてみたいと思っている
環境に流される愚か者である。
状況によって変わる気まぐれものである。
前提を疑うのは労力がかかる。
疑い続けるのはもっと労力がかかる。
行動に移すのは、さらに大変だ。
それを生活や仕事の選択に落とし込んだのが、2000年代。
選択するとき、自分が大切にしたい価値観を言語化する。
・その価値観は、育った環境の「ふつう」で培われる。
・義務教育の中で、脈々と植え付けられる。
・自分の琴線に触
疑われていない常識(26)
理性〈⇔直観〉は万能ではない。行動経済学や心理学などが、20世紀に理性の揚げ足取りを盛んにおこなった。そして、理性は格下げされたような状態だ。ただし、合理性があるからこそ、非合理性が存在するのだ。
反共感論を読んでいたときに、そんなことが書いてあった。これは僕にとってとても深い洞察だった。従来、疑われていなかった理性という常識を徹底的に疑い、そのことが科学の世界においては一つのブームになった。一
なぜ、「時間とタイミング」なのか(25)
自分のやっていることは、かなりの部分で論理破綻している。整合性はないし、思いつきででまかせでやっているものばかりだ。だから、人に説明するときにたいてい失敗する。その原因は、相手の立場に立たずに、思いついたことをポンポンといって混乱させてしまうからだ。そして、理解してほしいと思っているから、理解してもらえてないと思うと、次々と情報を投げ込み、一貫性やストーリーがなく、さらに混乱を招いてしまう。
そ
インターネットと待ち合わせ(24)
同じ空間を共有しなくとも、打ち合わせができるのは、インターネットの発展がある。しかし、それはあくまでも、「離れたところを接続する」ということについてだ。もし、接続されても、落ち合えなければ、打ち合わせはできない。メールのやり取りはできるだろうが、オンラインのビデオ会議はできない。
それでは、オンラインのビデオ会議を成立させるために、必要な条件はなんだろうか?それは、お互いに比較可能な時計を有して
Whyに含まれる時間性(23)
Why、なぜという言葉。これに含まれる時間性について、考えていきたいと思う。この時点で、何を書くのかは決めていない。
Whyの特徴を考えるために、同じカテゴリーにされやすい他のWと比較する。What,When,Who,Whichだ。Whenが一番時間性をもっていそうであるが、それはあくまでもその一瞬であり、その一時である。「いつ」というのは、ある意味で、それが答えられた瞬間に時間の範囲は定まる。
葉山芸術祭と、こくいっこく(21)
時間と音、について書いてみようと思う。
葉山芸術祭で、ひとつの作品を鑑賞した、正確にいうと体験した。テーマは時間であり、リズムだったのだが、僕がとりわけ心に残っているのは、「音」だ。
ジジジジジジジジジジ....
というバイブ音。
そして、この音を旅の途中のどこかで聞いたのだ。その音を聞いたとき、葉山のことを思い出した。そして、今、その音を聞いた場所のことは忘れている。時間をリズムに変換し
君が代、を時間から読む(20)
きみがよは
ちよにやちよに
さざれいしの
いわおとなりて
こけのむすまで
57577の歌であることを、日本国民に生まれて35年目にして気がついた。そして、この歌に込められた意味というのも、あらためて漢字をおっていくことで、いまさらながら勉強させてもらった。
さざれ石(小さな小石)が巌(大きな岩石)となり、苔がその巌にむすまでの長い時間、きみの時代が
という永遠なる治世を詠んでいるのだろうと。
時間がアフォードするもの(20)
「自分探し」とは本来、「自分」を探すことではなく、既存の環境のなかで自分が居やすい場所を見つけたり、つくり出したりすることだ。
人間の心的な機能も脳の内部で自律できる過程ではなく、環境との関係性にこそ、その本質がある。
『〈心〉はからだの外にある』の一節である。自分探しは、自分の中にある何かを探す行為ではないと、心理主義的な考えから一歩距離をおいた考えである。さらに、アフォーダンスを提唱したギ
未来のために現在があると信じた平成、そして令和(16)
本を読んでいて、ときに内臓が震えるときがある。寒気に近い感覚だ。それが起こるのは、自分が無意識に信じていたものが否定され、そしてその否定の論理に自分が納得してしまっているときだ。
頭はNO、体はYES。
この分離した状況を内臓、特に胃が察知するのだ。たまにこれが体調不良につながることさえある。そのほか、前頭葉が破裂しそうになる感覚もあるが、それはまた別の機会に読書の身体感覚みたいなテーマで書こ