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【つの版】ウマと人類史EX・インデックス

 ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。

 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。

 なお世界各地に話が飛びますので、世界地図をご用意下さい。なければGoogle Mapで充分です。


◆序章

01.古代馬種

 世界各地の古代社会におけるウマについて振り返ります。

◆中世欧州編

02.馬耕三圃

 古代ローマ帝国崩壊後、ウマはヨーロッパ社会を大きく変動させます。

03.騎乗馬種

 ウマの主な役割の一つは、人間を乗せて運ぶことです。

04.荷駄輓馬

 ウマは人間だけでなく、大量の物資を輸送することができます。

◆アジア編

05.五祖牝馬

 中東に勃興したペルシアやイスラム諸国は、優秀な騎兵によって広大な領域を征服・支配しました。

06.馬犠牲祭

 インド亜大陸は、数千年前から騎馬遊牧民に繰り返し侵攻されました。

07.馬車西来

 チャイナにウマと二輪戦車が伝来したのは、殷王朝の時代でした。

◆倭国編

08.倭地入馬

 4世紀後半、朝鮮半島から日本(倭国)へウマがもたらされました。

09.甲斐黒駒

 倭国各地では渡来人によってウマの飼育と使用が広まります。

10.諸国官牧

 倭国/日本は各地に官営の牧を設置し、軍馬や駅馬・伝馬、農耕用や運送用の牛馬を飼育させました。

11.火山草原

 日本列島には、ウマに適した草原が意外と多くあったようです。

12.河内馬牧

 古墳時代の倭国の中枢部である河内には、ウマの牧が存在しました。

13.西海馬牧

 火山性草原に富む中南九州には、古来多くの牧が存在しました。

◆東国編

14.東国馬牧

 信濃・甲斐・毛野など東国には古くから多くの牧が置かれ、ヤマト王権にウマを供給して栄えました。

15.武総馬牧

 武蔵や下総には関東ローム層の台地が広がっており、古来多くの馬牧が設けられました。

16.行方野馬

 常陸には野生のウマがいたことが常陸国風土記に記録されています。

17.貢馬千疋

 蝦夷の地にはウマが増え広がり、日本への主要な輸出品となりました。

18.武士淵源

 平安時代中期、日本には騎射を家芸とする軍事集団が出現します。

◆平将門編

19.坂東割拠

 坂東には桓武平氏が割拠し、骨肉の私闘を繰り広げます。

20.新皇僭称

 天慶2年末(西暦940年)、平将門は坂東で「新皇」を僭称しました。

21.将門調伏

 新皇を称した将門は坂東武者らによって討ち取られましたが、その影響は後世まで続きました。

22.村岡五郎

 将門の遺領は、叔父・良文の子孫が受け継ぎました。

23.兵武士侍

 藤原秀郷や平貞盛およびその子孫は、摂関家など朝廷の有力者を後ろ盾として権益を広げていきます。

◆清和源氏編

24.清和源氏

 源経基の子・満仲は摂関家に仕えて中央の政変に関り、北摂地方の多田盆地に広大な荘園を所有して武士団を形成しました。

25.平忠常乱

 満仲の子のうち頼光は摂津の所領を継ぎ、頼親は大和に進出しますが、頼信は河内と坂東に地盤を築き、房総で起きた平忠常の乱を平定しました。

26.奥州六郡

 頼信の子・頼義は相模守となり、妻の父・平直方より鎌倉の所領を譲り受けます。この頃奥州では安倍氏が勢力を広げていました。

27.前九年役

 源頼義は奥州安倍氏を討伐しますが大苦戦し、出羽清原氏に頼み込んで平定します。清原氏は奥羽に勢力を広げ、安倍氏に取って代わりました。

28.後三年役

 頼義の子・義家は清原氏の内紛につけこんでこれを滅ぼしますが、義家の支援した藤原清衡が清原氏に取って代わっただけでした。

◆伊勢平氏編

29.伊勢平氏

 河内源氏は義家の死後に内紛で衰退し、これに代わって伊勢平氏の平正盛が白河法皇の寵愛を受けて成り上がり始めます。

30.鳥羽院政

 平正盛・忠盛は白河・鳥羽院政を支え、西国に所領と権益を広げて巨万の富を貯えます。一方、河内源氏の為義は摂関家を後ろ盾としました。

31.保元之乱

 1156年に鳥羽院が崩御すると、院の近臣らは崇徳上皇と左大臣・藤原頼長に謀反の疑いをかけ、後白河天皇を頂いて彼らを討伐します。

32.平治之乱

 保元の乱の後、後白河天皇のもとで信西が政権を握り国政改革を行いますが、これに反発した勢力により平治の乱が勃発します。

33.平氏政権

 平治の乱の後、二条天皇が崩御すると、平清盛は後白河院と手を組んで国政を牛耳り、平氏政権を樹立します。

◆源平合戦編

34.以仁王乱

 治承3年(1179年)、平清盛は後白河院を幽閉して政権を独占しますが、翌年に後白河院の子・以仁王が挙兵し、平家討伐を天下に呼びかけます。

35.頼朝挙兵

 治承4年(1180年)8月、義朝の子・頼朝が伊豆で挙兵し、坂東の諸豪族に平家討伐を呼びかけます。

36.富士川戦

 頼朝は鎌倉に拠点を置き、甲斐で挙兵した武田信義らと協力します。

37.義仲上洛

 木曽義仲は上野・北信から北陸道へ進出し、平家の追討軍を打ち破って京都へ侵攻します。

38.寿永宣旨

 平家を駆逐して上洛した義仲は後白河院と対立して孤立し、頼朝は院と手を結んで義仲を討伐します。

39.屋島合戦

 義仲を倒した義経と範頼は、西国に逃れた平家の討伐を行います。

40.文治勅許

 平家は壇ノ浦の戦いで滅亡し、義経も兄・頼朝と対立して反乱を目論見ますが失敗し、頼朝は後白河院を脅して天下の軍政権を掌握します。

◆鎌倉幕府編

41.奥州合戦

 文治5年(1189年)、頼朝は義経を匿った奥州藤原氏を討伐し、天下統一を成し遂げます。

42.鎌倉幕府

 建久元年(1190年)、頼朝はついに上洛して後白河院と会談し、同年に権大納言・右近衛大将、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられます。

43.十三人制

 頼朝の死後、子の頼家が跡を継ぎますが、北条時政は梶原氏・比企氏ら政敵を粛清して頼家を廃位し、頼家の弟・実朝を擁立して実権を握ります。

44.畠山之乱

 北条時政は有力御家人の畠山重忠を討伐しますが、戦後処理を巡って娘の政子、息子の義時らと対立し、隠居に追い込まれます。

45.和田合戦

 北条義時は政子らと協調して政治を行いますが、反発する御家人も多く、建暦3年(1213年)には泉親衡の乱、続いて和田合戦が起きています。

46.実朝暗殺

 源実朝には世継ぎが生まれず、建保7年(1219年)正月に頼家の子・公暁によって暗殺され、源氏将軍は断絶しました。

47.義時追討

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽院は西国の武士たちを呼び集め、北条義時を追討せよとの宣旨を発しました。承久の乱の始まりです。

48.承久之乱

 北条義時の子・泰時らはわずか1ヶ月で乱を平定し、幕府を牛耳る北条氏は院と朝廷をも制御下に置いて、事実上の日本の支配者となります。

49.貞永式目

 父の跡を継いだ泰時は「13名の評定衆」による合議制で幕府を運営し、貞永元年(1232年)には武家の成文法「御成敗式目」を制定します。

50.得宗専制

 泰時の孫・時頼は鎌倉から摂関将軍を追放し、反執権勢力を倒して宮将軍を迎え、北条氏惣領(得宗)による独裁的な権力を確立しました。

【ひとまず終わり】

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